Sugar Heart Shiny Days

  /1


「……暑い」
 そんなこと、わざわざ口に出さなくても誰だって分かっている。でも、この暑さじゃ、ついつい言わずにはいられない。
「セシルちゃん、暑いと思うから暑いのですわ」
 とは、頭上から届くマーガレッタ=ソリンの言葉。
「そんなこと言ってもさあ。暑いもんは暑いんだから、しょうがないじゃない」
 手のひらをうちわ代わりに、ぱたぱたと扇ぐ。
 気休め程度だが、風がないよりはマシというものだ。
「何事も気の持ちようですわ。イワシの頭も信心から、と言うじゃありませんか」
「あんたねえ。仮にも聖職者の言うことじゃないでしょ、それ」
 というか、このとんでもない暑さの中、何故コイツはあたしの背後からべったりと抱きついてきてるのか。
 この状況を第三者の視点で眺めたら、あたしが等身大たれマーガレッタ人形でも装備しているように見えるに違いない。
 それにしても、この暑さの中にあってさえ、普段と全く変わらないスキンシップをしてくるそのガッツには、呆れを通り越して、ちょっと感心してしまう。
 暑っ苦しそうな法衣をきちんと着こなしつつ、嬉しそうにぎゅーっと抱きついてくるマーガレッタを見ていると、今この状況を暑いと思っているのはあたしだけなんじゃないかという気がしてくる。
 もしかしたらマーガレッタ自身は、本人の言うように、気の持ちようでどうにかなってるのかもしれない。あるいは、この精神力こそが、聖職者たる所以なんだろうか。
「だがしかーし!」
 ばばっ、とマーガレッタの腕を振りほどく。あん、と残念そうな声。
「これ以上ベタベタするの禁止! たたでさえ暑いんだから!」
「じゃあ、暑くない時なら良いのですね?」
 と、マーガレッタが切り返す。
 うーん?
 なるほど、言われてみればそれもそうか――
「――って、そんなわけないじゃない!」
「じゃあどんなわけなのですか?」
「えーと、暑いから密着するな、っていうことで、つまり――」
「つまり、密着しなければいいのですね」
 ずい、とマーガレッタが身を乗り出す。
 鼻先が触れそうになるほどの距離。
 一瞬、キスでもされるのかと思って、びくん、と反射的に体を引く。
 あたしのその反応に、マーガレッタは、ふふっ、と小さく声を立てた。
 まるで、新しいいたずらを思いついた子供みたいに、マーガレッタは小悪魔的な笑みを浮かべて、さらに体を近づけてくる。
「ちょっ、マガレ、やめっ……」
 覆い被さってくるマーガレッタから逃れるように、手を後ろについてずりずりと後じさる。
 すぐに、こつん、と硬い感触が背中に触れた。
 壁際に追い詰められたのだ。
 横に逃げようとしたけれど、遅かった。マーガレッタが両手を壁について、あたしの動きを封じ込める。
 マーガレッタの顔が近づいてきて、ふわっといい匂いが鼻をくすぐる。
「ふふ、どうしました? 私、セシルちゃんには指一本触れてませんわよ」
「そ、そりゃあ確かに、まだ触れてないけどっ……」
「まだ触れてない、けど?」
 けど、のところにアクセントをつけて、マーガレッタが訊き返す。その間にもマーガレッタは顔を寄せてきて、ささやく声と一緒にその吐息までもがあたしの頬をそっと撫でていく。
「い、いや、これからも触れなくていいって!」
 必死に否定しながら、自分で自分の顔が真っ赤になっているのが分かる。
 ああもう、なんでこんなことになっちゃったんだろう。
「やめっ……ホントに、ダメ……だってばぁっ」
 あたしがぎゅっと目を閉じた、その時。
 がちゃり、と部屋のドアが開いた。
「……ちっ」
 マーガレッタが動きを止めて、ドアの方を向く。
 はあ、助かった。
 安堵がこみ上げて、思わずほっとため息をつく。
 ドアを開けたのは、カトリーヌ=ケイロンだった。彼女は、いつも通りのどこか眠そうな無表情であたしたちを見て、
「……二人とも、ハワードが呼んでる」
 と、ぽつりと呟くように告げた。
 あたしとマーガレッタのこの状況を見ても、何も気にした様子はない。さすがのマイペースだ。
「ハワードが?」
 こくん、と頷くカトリーヌ。
「はて、何でしょうか」
「見せたいものが、あるんだって」
「見せたいもの?」
 こくん、と再び頷くカトリーヌ。
「なんだろ。カトリはもう知ってるの?」
 カトリーヌは、今度はふるふると首を振った。
「……でも、みんな、びっくりするって」
 ふうん。びっくり、ねえ。
 それは良い方に驚くのか、悪い方に驚くのか。
 どっちにしろ、この状況から抜け出すのに、渡りに船なことは違いない。
「よし、じゃあ今すぐ行こう、そうしよう」
 と、マーガレッタの体を押しのける。
「はあ、しょうがないですわね」
 マーガレッタは渋々といった様子で立ち上がり、部屋を後にした。
 あたしもそれに続こうとしたところで、ふと、カトリーヌがじーっとこちらを見つめているのに気がついた。
「うん? なんかあたしの顔についてる?」
「…………」
 ふるふる、と違うの合図。
 じゃあ一体、何をそんなに気にして――って、もしや。
「あのさ、カトリ、何かとんでもない勘違いしてない?」
 恐る恐る聞いてみる。
「……大丈夫、みんなには、秘密にしておく」
 ああもう、やっぱり。
「あのねカトリ、さっきのはそういうアレじゃないんだってば! あれはそう、ちょっとしたはずみっていうか、軽い冗談みたいなもんで、決して変なことをしようとしてたワケじゃないんだから! お願い、信じて!」
 焦りのあまり、思わずカトリーヌの肩をがっと鷲掴みにする。
 肩を掴まれたカトリーヌは、ぽっ、と無言で顔を赤らめ、そっと目を伏せた。
「だーっ! 違う! ちがーう! その反応はおかしいでしょ!」
「……そうなのか? わたし、こういうのはじめてだから、よくわからない」
 はて、と小首をかしげるカトリーヌ。
 ええい、もう。まったく、どうしたら誤解を解けるのだろう。
「二人とも、遅いですわよ」
 と、通路の向こうからマーガレッタの呼ぶ声が聞こえてきた。
「と、とにかくホラ! 行くわよ!」
 あたしはカトリーヌの首根っこを引っ掴んで、そのまま引きずるように歩き出した。
「……わたし、お持ち帰りされてる?」
「ちーがーうー!」


  /2


「おお、来たな」
 ハワード=アルトアイゼンが、腕組みを解いてこちらに向き直る。
 その横には、エレメス=ガイルとセイレン=ウィンザー、そして先に到着していたマーガレッタの姿もあった。
 普段、滅多に人が通りかかることのない、狭い通路。
 その突き当たりのドアの前に、ハワードたちはいた。
「何よ、三階のメンバーが全員揃ってるじゃない。見回りの方はいいの?」
 あたしが言うと、ハワードは豪快に笑った。
「ははは。細けえことは気にすんなって。大体、このクソ暑い中、真面目に巡回なんかしてられるかってえの」
「いや、どんな酷暑であろうとも、職務を放棄していい道理はないぞ」
 と、セイレンが渋い顔でハワードをたしなめる。
「そういうセイレンだって、作業にはノリノリで手を貸してたじゃねえか」
「うぐ。ま、まあ、たまには息抜きも必要かと思ってな」
 なにやらエレメスに突っ込まれて、セイレンが慌てて言い繕う。
「はあ。息抜き、ですか?」
 と、マーガレッタが首をかしげる。
 どうやら、男衆三人は事情を知っているようだが、マーガレッタはまだ何も聞かされていないらしい。
「……おいしいもの?」
 息抜きと聞いて、カトリーヌがきらーんと目を輝かせる。どうやらこの子の中では、息抜きイコール食事らしい。
「うーん、カトリにゃ悪いが、あいにく食いモンじゃねえな」
「……ざんねん」
 と、カトリーヌが呟く。表情はずっと変わらないのに、きちんと落ち込んでいるらしいのが分かるから不思議だ。
「で、結局、見せたいものって何なの?」
「おう。このドアの向こうだ」
 ハワードが、裏拳でコンコンと扉を叩いてみせる。
「この向こうって――、確か、旧い実験室か何かだっったけ? 今は、物置ぐらいにしか使ってなかったと思うけど。片付けでもしたの?」
「バーカ。俺らが、こんなに片付きましたよすごいでしょ、なんてのを見せたがってるとでも思ってんのか?」
 エレメスが、鼻で笑いながら言う。
 むかっ。
 まったく、コイツは、言い方も言うことも、いちいちあたしのカンに障る。
「で、結局、あんたたちの見せたいものって何なのよ?」
 そしらぬ顔で訊きながら、報復として、エレメスの足を思い切り踏み付けてやった。
 ぐあ、と声を上げるエレメスに、セイレンが怪訝そうな目を向ける。
「どうしたのだ? エレメス。妙な声など出して」
「な、なんでもねえよ」
「はいはい、ヒールですわね」
 マーガレッタが、やれやれと言った様子でエレメスにヒールを唱える。お人好しは聖職者の性分かもしれない。別にこんなやつ、放っておけばいいのに。
「確かに、ちょっと前まではただの物置だったけどな。ちょいと手を加えたわけよ。だが、片付けなんて甘いモンじゃねーぜ」
 にやり、と笑いながら、ハワードがちっちっと指を振った。
「ま、百聞は一見に如かずってことで、実際に見てもらうのが一番手っ取り早え。さあさ、お客さん方、よおくご覧あれ」
 芝居がかった口上と共に、ハワードが後ろ手にドアを開け、あたしたちを部屋の中へと招き入れた。
「はいはい、何をそんなにもったいぶって――」
 と、そこまで言いかけて、あたしは言葉を失った。
 目の前に広がった光景は、それだけ、驚きに値するものだった。
 だだっ広い室内の大半が、きらきらと輝く水面に覆われていた。涼やかな水を満々とたたえた大きな人工石の浴槽が、部屋の大部分を占めて、どっかと置かれている。
 内装は、鮮やかなライトブルーを基調に統一されており、天井に設けられた、地上まで繋げたらしい明かり取りの天窓が、眩しい陽射しを室内に満たしている。
「……びっくり」
 と、カトリーヌが呟く。もっとも、台詞とは裏腹に、表情は相変わらずぼんやりしたままだが。
「あらあら、まあ、これは――」
 マーガレッタも、唖然とした顔のまま立ち尽くしている。ま、無理もない。あたしも、ここの男連中の無茶苦茶さはよく知っているつもりだったが、今回ばかりは度肝を抜かれた。
「はあ。まさか、プールを作っちゃうとは思ってなかったわ」
「ははは。ま、流石にフルスクラッチってわけじゃあねえけどな」
 と、ハワードが頭を掻く。
「ここは元々、水棲モンスターを研究していた部屋だったんだ」
 なるほど、言われてみれば、プールにしては造りが妙だ。水面が足下ではなく、せり上がった段差の上に広がっている。
「ははあ。いけすを改造した、ってわけね」
「おう。水回りの設備も、こっぴどく痛んじゃあいたが、結構生きてたんでな。そのお陰で、思ってたよりは手が掛からなかったぜ」
「手が掛からなかったって、あんたねえ。これはもう、そういうレベルじゃないでしょ」
「ま、自信作っちゃあ、その通りだわな」
 ハワードは事も無げに言ったが、このリフォームの完成度の高さは、とても素人の手作業とは思えない。知らない人に見せれば、ここが高級リゾートホテルの付属施設だと言っても、信じてしまいそうだ。
「ハワード、あんたってば、鍛冶屋じゃなくて大工の方が向いてたんじゃないの?」
「ははは。褒め言葉と受け取っとくぜ」
「ま、俺らもさんざん手伝わされたけどな」
 どこか自慢気に、エレメスが言う。その横で、セイレンも、うむ、と仰々しく頷いている。
 そういえば、このところ、男連中が何やらこそこそ怪しい動きをしていると思っていたが、あたしたちに内緒で、こんなものを造っていたのか。
「だな。二人のお陰で、なんとか夏に間に合ったぜ。いざとなりゃあ、二階の野郎どもにも頼もうかと思ってたんだが」
「それでしたら、教えてくださればよかったのに。私たちもお手伝いしましたわ」
 と、マーガレッタが言う。
「いやいや、こういった力仕事は男がするモンだ。それに、こっそり仕上げて驚かせたいってえのもあったからな」
 ハワードが屈託なく笑う。
「ここまでの反応を見る限り、どうやら、充分驚いてもらえたみたいだな」
「まーな。汗を流しただけの甲斐があったってわけだ」
 セイレンとエレメスも、うんうんと満足そうな笑顔を浮かべて頷く。
 いや、そりゃ確かに驚いたけど。ていうか、そんな単純な理由で、ここまでの大仕事をたった三人だけでやってのけるだなんて。なんていうか、男って分からない。
 しかし、プールかあ。
 ううむ。
 さすがに、この生体研究所内で、プールに遭遇することになるなんて、全く予想していなかった。
 まずい。これは実にまずい。
「……冷たくて、きもちいい」
 いつの間にか、カトリーヌが水際にしゃがみこみ、手のひらをちゃぷちゃぷと水面に浸している。
「だろ。これで、このクソ暑い夏を乗り切ろうってこった」
「でも、プールがあっても、水着がありませんわ」
 マーガレッタが訊ねる。
「そ、そうよ! 水着がなくちゃ意味無いじゃない!」
 とあたしは声をあげた。しかし、ハワードは再びチッチッと指を振って、
「そう言うだろうと思ってな。アルマに頼んで、色々と仕入れてきてもらった。あっちの一角がロッカールーム代わりになってるから、好きなのを選んでくれていいぜ」
 ぬう。
 まさか、水着まできちんと用意してあるなんて。
 ええい、ハワードめ。
 大雑把な性格のように見えて、こういったところは妙に気が利くんだから。
「さあて、次は二階の連中を呼んでくるか。どんな反応するか、今から楽しみだぜ」
「皆、この暑さには辟易してたみてーだからな」
「うむ。セニアの喜ぶ顔が目に浮かぶようだ」
 ああ、なるほど。
 真面目なセイレンがどうしてこんな計画に荷担してたのか不思議だったけど、セニアちゃんの水着姿に釣られたわけか。
 マーガレッタもそれを察したらしく、そわそわとやけに浮かれた様子のセイレンを、生暖かい目で見守っている。
「――ってなわけで、俺たちはちょいと二階に行ってくる。なんだったら、お前たちは先に泳いでてもいいぜ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 部屋を出て行こうとしたハワードたちを、慌てて呼び止める。
「あン、どうした?」
「ああ、いや、えっと……」
 とっさに呼び止めたものの、そこから先は、何も考えていなかった。
 とにかく、なんとかして時間を稼がないと。
 このままの流れで、みんなでワイワイ泳ごう、なんてのは、最悪の展開だ。
「あのね、いくらなんでも、全員が遊び呆けてちゃまずいでしょ。今だって、三階の守りはほっぽらかしになってるし。それに、プールに入ってる間は丸腰になるわけだし、その間に侵入者に襲われたら、あっさり全滅させられちゃうかもしれないでしょ?」
 うん。
 思いつきで言ったわりには、我ながら結構それっぽい。
「ふむ。ま、確かに、完成に浮かれすぎて、冷静さを欠いていたかもしれねえな」
 エレメスがあたしのでまかせに乗ってきた。
 いいぞ、エレメス、と心の中で呟く。
「どうだ、ハワード。まずはこのプールの利用方法について、きちんと皆で話し合うのが先なんじゃねえのか?」
「そ、そうよ! それがいいわ!」
 と、エレメスの提案に話を合わせる。
「ふうむ、ま、よくよく考えてみりゃあ、お前らの言う通りかもしれんな」
 ハワードが腕組みをして、ううむ、と考え込む。
「そうですわね。では今夜の夕食後にでも、みんなで検討することにしましょうか」
 マーガレッタが言う。
 よし。
 どうやら、これでひとまずはピンチを脱することができそうだ。
 あたしが、ほっと心の中で安堵のため息をついた時。
「ふむ、それについては一つ考えがある」
 いきなり、セイレンが真顔で何か言い出した。
「考え?」
「ああ。どういったルールを定めるにしろ、二階の奴らだけでプールを使わせるような状況は、避けるようにしたほうがいい。あいつらを信用しないわけじゃないが、万が一の事故ということもある。俺たち三階メンバーの誰かが、保護者兼監視係としてつくべきではないだろうか」
 へえ。
 いかにも城勤め出身のセイレンらしい、お堅い考えだこと。
 でもまあ、セイレンの言うことにも一理あるか。カヴァクたちだけだと、悪ノリしすぎてとんでもないことになっちゃったりしそうだし。
「特にセニアなどはまだ泳ぎが未熟ゆえ、誰かがコーチにつかねばなるまい。その点、俺ならば、いざというときの救急措置にも習熟している上、コーチング能力に関しても申し分ない。どうだろうか、セニアがプールを使う時は、俺も一緒に……」
 ――前言撤回。
 つまり、どうあってもセニアちゃんの水着姿が見たい、と。
「却下だな」
「却下だろ、そりゃ」
「却下ですわ」
 セイレンの提案は、にべもなく一斉に却下された。
「なっ、何故!?」
「いや、何故もなにも、その方がむしろ問題なことが起きそうだし」
 がっくりと片膝をつき、顔を手で覆って落ち込むセイレン。その背を、カトリーヌがぽんぽんと叩いて慰めている。
「……まあ、あいつは放っとこう。それじゃ、ひとまずは解散して、続きは晩飯の後ってことで」
「オッケ、了解」
「わかりましたわ」
 とまあ、そんなわけで、この場はお開きということになった。
 ――はあ。
 自室へと戻る途中、一人になったのを確認して、大きくため息をつく。
 やれやれ。なんとか最悪の事態は逃れることができた。
 しかし、まだ、根本的な問題が解決されたわけじゃない。
「困ったなあ……」
 と、思わず呟く。
 まったく、あいつらも余計なことをしてくれたものだ。
 いくら暑いからって、プールを造っちゃうなんて。
「ああもう、この先どうやって誤魔化し続けたらいいのよ!」
 そう。
 実は、あたしは、泳ぎが全くダメなのであった。


  /3


「うーん……」
 と、眉根を寄せながら、次々と違う水着を手にするマーガレッタ。
 いつもニコニコしている彼女が、これだけ真剣に悩んでいる姿というのも、ある意味珍しいんじゃないだろうか。
「難しいですわね、キュート路線か、それとも大胆に攻めていくか……」
 手にした水着をあたしの胸元にかざしながら、ぶつぶつと呟く。
 そう。
 先程からマーガレッタがあれでもない、これでもないと選んでいるのは、自分のではなく、あたしの水着なのであった。
 ちなみに、水着なんて泳げれば何だっていいじゃない、と言ったあたしの意見は、ノータイムで却下された。
「あのさ、マガレ、まだ決まらないの?」
「ええ、まだですわ」
「あんたねえ。もう1時間以上は経ってる気がするんだけど」
「セシルちゃんが実際にひとつひとつ着てみてくれるのでしたら、もっと選びやすいのですけれど」
「……何時間でも悩んでくれて結構よ」
 そんなことしたら、試着どころじゃないことになるのは目に見えている。
 良くて、着せ替え人形のように弄ばれるのがオチだ。
 それにしても、アルマイアはどこからこれだけの数の水着を仕入れてきたんだろう。ちょっとした専門店並みの品揃えだ。
 しかも、普段はあれだけ金にうるさいのに、今回の件に関しては、ロハでいいらしい。何か裏があるのではないかと、つい勘繰ってしまいたくなる。
 そんなことを考えている間に、マーガレッタの水着選びも、ようやく残り二つのうちどちらかというところまで絞り込まれたようだ。
「うーん、これはもう、私だけでは決められないですわね。セシルちゃんはどちらがいいと思いますか?」
「どっちって言われても……」
 なにしろ、泳げないのだ。
 これまでの人生、ずっと海やプールを敬遠してきたあたしだ。水着に興味なんて、これっぽっちもありゃしない。
 それに元々、着るものに関しては性能重視、見た目は二の次というのが、あたしの評価基準だ。
 そのあたしに、水着を選べと言われても、困ってしまう。
 はて、しかし、水着の場合は、何をもって性能と言えばいいんだろう。
 着ると速く泳げるようになる、とかかなあ。でも、そんな水着、あるわけないし。
 ともかく、マーガレッタの勧める水着を見てみる。
 ひとつは、黒地にワンポイントで白のラインが入った、ワンピースタイプのものだった。ワンピースとはいっても、谷間の部分や両サイドが大胆にカットされていて、シンプルな中にセクシーさをアピールしたデザインになっている。
 もうひとつは、ピンクを主体に花柄を散らした、ビキニタイプの水着だ。胸元と腰の片サイドにあしらわれた大きなリボンやフリルの装飾、セットになったティアードのミニスカートなどが、ガーリーな雰囲気を前面に押し出している。
「うーん。こっちかなあ」
 と、あたしはビキニの方を指さした。
 まあ、ぶっちゃけた話、どっちでもいいというか、どうでもいいんだけど。
 どうせ、着ることなんか無いだろうし。
 それよりも、いい加減水着選びを終わらせないと、いつまでもマーガレッタから解放されないことになっちゃいそうだ。
「なるほど、こちらですわね」
 頷いて、マーガレッタが他の水着を片付ける。
「はい、では、こちらがセシルちゃんの水着ですわ」
「あ、うん。ありがと」
 ぽん、と手渡された水着を受け取る。
 うーん。
 こうやって改めて見ると、違うのにすればよかったかなあ、なんて、適当に選んじゃったことを、ちょっと後悔してしまう。
 いやまあ、この水着それ自体に問題があるわけじゃない。
 なんていうか、いかにも女の子してますっ! みたいな感じが全開で、すごく可愛い。
 うん。
 可愛いとは思う――けど、それが、問題なのだ。
 可愛いのはいい。しかし、それがあたしに合うかっていうと、それはまた別の話だ。
 そりゃあ、あたしだって女の子には違いない。でも、自分で言うのもなんだけど、あたしにはこういう可愛い系って似合わない気がする。
 だって、タッパあるし。
 筋肉ついちゃってるし。
 胸だって、その、まあ、人並み以下だし。
 はあ。
 と、内心でため息をつく。
 きっと、二階の子たちなんかが着ると、ばっちり似合うんだろうなあ。
「さて、じゃあ早速着替えてプールに行きましょうか」
「はあ!? 何言ってんの、今日は水着選びだけって言ってたじゃない」
「あら、そうでしたか?」
 はて、と、首をかしげるマーガレッタ。
 まったく、油断も隙もない。
 とぼけたふりをしているが、流れに任せたどさくさで、あたしをプールに連れ出そうという魂胆が見え見えだ。
「そうよ。それに、もう他の連中が使ってるかもしれないじゃない」
「それなら大丈夫ですわ。私たちの名前で予約を入れておきましたから」
 おおう。
 マーガレッタ、恐ろしい子。我が友人ながら、なんて油断のならない奴だろう。
 あれほど水着を選ぶだけだからね、と念を押したのに、ちゃっかり予約を入れてきてるだなんて。
 あの日の夕食後――
 みんなで話し合った結果、プールの利用について、研究所の警備に支障が出ないよう、いくつかのルールが設けられた。
 まず、一人が一日に利用できるのは、二時間まで。
 また、同時に利用できるのは、最大四人まで。
 その条件内ならば、あらかじめ予約を入れておくことも認められた。
 四人枠については、飛び入り利用にしても、予約にしても、基本的には早い者勝ちである。
 とはいえ、プール自体は二十四時間解放されているので、時間帯さえ選り好みしなければ、そうそう利用に困ることはない。
「……ていうか。あのね、あんた、なに勝手にあたしの分まで予約してんのよ」
「でも、セシルちゃん、自分からは全然泳ぎに行こうとしないじゃありませんか」
「そ、それは、その、まだ水着どれにするか決めてなかったし」
「今決まりましたわ」
 じっ、とあたしの目を見つめるマーガレッタ。
「で、でも。ホラ、巡回とかで忙しいし。そういえば確か、今日もこれからあたしの受け持ちだったんじゃないかなあ、とか」
「個人の仕事量は均等に割り振られてますし、休暇の日数も全員同じはずです。それに、今日の巡回担当は、ハワードとエレメスですわ」
 うう。
 なにもそんなにビシバシ反論しなくたっていいじゃない。
 苦しい言い訳だってのは、こっちだって分かってんのよ。
「――セシルちゃん、もしかして」
 と、マーガレッタがあたしの顔を覗き込む。
 うぐ。
 もしかして、気付かれた!?
 ああもう、今まで誰にも内緒にしてきたのに。
 運動神経の良さなら、メンバーの中でもトップクラスだと自負している。そんなあたしがカナヅチだと知ったら、みんなこぞって弄ってくるに違いない。
 けれど。
 マーガレッタのセリフは、あたしの想像とは違っていた。
「私と一緒に泳ぐのが、そんなにお嫌なのですか?」
 あら。
 身構えていた分だけ、ガクンと体の力が抜けてしまった。
「セシルちゃんが不審に思うのも仕方ありませんわ。ですが、私がセシルちゃんとプールに行きたいのは、決してやましい下心からではございません。本当に心から純粋に、セシルちゃんの美しい肉体がきらめく水中で存分に躍動する様を心ゆくまで眺め愛でたいだけですわっ!」
 その光景を想像しているのか、マーガレッタは遠くを見つめるように、うっとりと目を細めている。
 はあ。
 いや、コイツの性格はよく分かってるけど。
 改めて、ここまで堂々と自分の欲望をさらけ出せるっていうのは、ある意味すごいんじゃないかなあ、とか思ってしまう。
 とまあ、それは置いといて。
 どうやらマーガレッタは、あたしがプールを避ける理由を勘違いしているみたいだ。彼女には悪いけれど、そのままずっと勘違いしていてもらうことにしよう。
「ふ、ふんっ。そんなの信じられないわよ! どうせ、隙あらば水着を剥ぎ取って、あたしに襲いかかろうと思ってるんでしょ!?」
「思ってますわ」
 うおい!
 と反射的に心の中でツッコミを入れる。
 ついさっき、下心は無いとか言ってたのはどこの誰だ。
 あたしがそう言うと、マーガレッタは平然とした顔で、
「プールに行くことに関して下心が存在しないのは本当ですわ。だって、隙あらばセシルちゃんを襲いたいというのは、いつどこであろうと常に思っていますから。つまり下心ではなく、表心なのですわ」
 と言った。
 ええい、訳の分からん屁理屈を。
「あのね、あんたね、そんなだから信用できないのよ!」
「信用ならないなんて心外ですわ。私のセシルちゃんへの思いは本物ですのに」
「いや、だから、信用できないのはそこじゃなくて!」
 ああもう、コイツと話してると、頭がこんがらかってきてしまう。
「ともかく! あたしは絶対にプールになんか行かないからねっ!」


  /4


 そもそも、あたしが泳げないのは、山育ちだからだ。
 別に、水が怖いとか、幼少期のトラウマだとか、水をかぶると性別が変わってしまうだとか、そういった理由があるわけではない。
 ただ単に、生まれてこのかた、泳ぎを身に付ける機会がなかったという、それだけのことだ。
 いや、まあ、全く水が怖くないかと言われれば、そりゃ多少は怖いけど。
 けど、その怖さは、未知のものに対する怖さだ。
 泳いだことがないから怖いのであって、怖いから泳げないのとは違う。
 元々、体を動かすことは大好きだ。
 それに、運動神経の良さには自信がある。
 あの、ぽややんとしたカトリーヌでさえ、犬かきとはいえ、泳げるのだ。
 だというのに、あたしが泳げないなんてことがあるだろうか?
 ううん。
 あるはずがない。
 あたしだって、ちょっと練習すれば、すぐ泳げるようになるだろう。
 いや、なるはずだ。
 もう一度、そう自分に強く言い聞かせて、あたしはそっと自分の部屋から抜け出した。
 深夜――
 すでに、日付は変わっている。
 他のメンバーたちは、もうみんな寝入ってしまったのだろう。研究所の中は、しんと静まりかえっている。
 あたしは泥棒のように足音を忍ばせて、プールの傍らに造られた簡易更衣室に入った。適当に空いているロッカーを選び、着ていた服を脱ぐ。
 下には、部屋から出る前に、あらかじめ水着を着用してきている。先日マーガレッタが選んでくれた、あのピンクのビキニだ。
 脱ぎ捨てた服をロッカーの中に放り込み、あたしは更衣室を出た。
 元はいけすだったというプールへは、上りやすいよう階段が設けられている。あたしは一歩一歩踏みしめるように、その階段を上った。
「う……」
 夜の闇の中で見るプールの水面は、昼間とはがらりと雰囲気が変わっていた。
 天窓から届く月明かりが、仄かに室内を照らしている。とはいえ、水面はまるで不気味な底なし沼のように黒々としていて、中がほとんど見通せない。
 足を踏み入れたら、どこまでも深く引きずり込まれてしまいそうな気がする。
 あたしは、自分の中で、さっきまでの決意がぷしゅーっと音を立ててしぼんでいくのを感じていた。
 ううう。
 やっぱり、あたしに水泳なんて無理だ。
 そもそも、別に泳げなくたって、何が困るというわけでもない。そりゃあ、もしみんなにバレたら恥ずかしいけど、それだって、今日までのようにどうにか誤魔化し続ければ、きっと大丈夫のはずだ。
 うん。
 決めた。今日はもう帰ろう。
 あたしが、そう思った時。
 ふいに、足音が近づいてきた。
 ――誰か来た!?
 あたしはとっさに、近くの物陰へと身を隠した。
 そのまま息を殺して、気配を伺う。
 やがて、男子のロッカールームから、誰かが出てくるのが見えた。
 薄闇の中、白々と差し込む月光が、長身痩躯の体つきとぼさぼさの長髪を、シルエットのように浮かび上がらせている。
 あれは……エレメス?
 あたしは、じっと目をこらした。
 うん。間違いない。あれは、エレメスのやつだ。
 海パン姿のエレメスは、ぶらぶらと手足を解しながら、プールの方へ歩み寄っていった。
 階段をぶっきらぼうな足取りで上り、両足を揃えて、プールサイドの縁に立つ。
 ぐるりと何度か首を回して、エレメスは水面に視線を向けた。
 その体が、ぐうっと前屈した。
 次の瞬間、まるで縮められたバネが反発して伸び上がるように、エレメスは水面に向けてプールサイドの縁を蹴った。
 ばしゃん、という派手な音がするかと思ったが、水音も、水しぶきも、あっけないほどに少なかった。
 エレメスの身体が矢となって、水の中に突き刺さった――、あたしには、そんな気がした。
 そのまましばらく、エレメスは浮かび上がってこなかった。ここからはよく見えないが、きっと潜ったまま泳いでいるのだろう。
 うーん、あのへんかな?
 と、揺れる水面をじっと見つめる。
 だが、エレメスが初めて水面から顔をあげたのは、あたしが見当をつけたよりもずっと先のところだった。もうほとんど、プールの反対側といってもいい。
 うわ、と心の中で呟く。
 コイツ、一体いつの間にそんなところまで泳いだっていうのか。それも、ひと息で。
 それからエレメスは、今度は普通に息継ぎを入れながら、両手両足を使って泳ぎ始めた。
 速い。
 ぐんぐんと、エレメスの体が水面を切り裂いて進んでゆく。
 あっという間にプールの端から端へと泳ぎきり、エレメスはくるりと水中でターンして、壁面を蹴った。
 はあ。
 人間って、こんなにも達者に泳げるもんなんだっけ。
 あたしは思わず、呆れと、ちょっと悔しいけど、尊敬の入り混じったため息をついた。
 事実、エレメスの泳ぎはすごかった。
 速いのはもちろんなんだけど、なんていうか、無駄がない。
 手のひとかき、足のひと蹴りごとに、ぐい、ぐい、と推進力が生み出されていくのが分かる。
 それはもう、一つの完成された機能美だ。
 と――
 エレメスが動きを止めた。
「おい、いつまでもジロジロと人のこと見てんじゃねーぞ」
 まるで独り言を呟くように、エレメスが言った。
「……っ」
 びくん、とあたしは体を硬くした。
 まさか。
 気づいたのだろうか。あたしがここにいることに。
 ううん、そんなはずはない――そう思い込んでかくれんぼを続けられるほど、あたしは楽観主義者じゃなかった。
「ちぇっ。気づいてたんなら、最初っからそう言いなさいよね。隠れて損したわ」
 あたしは舌打ちして、物陰から出た。
「――セシル?」
 エレメスはプールの中からあたしを見上げ、そのまま、妙な顔をして固まった。意外そうな口調から察するに、自分に向けられた視線には感づいていたが、それが誰であるかまでは分かっていなかったらしい。
 それにしても。
 この、エレメスの表情は、一体何なのだろう。
 それに、なんか止まっちゃってるし。
「どうしたの? エレメス。鳩が豆鉄砲喰らったような顔して」
 と。
 そこでふと、あたしは、自分が今どんな格好をしているのかを思い出した。
 そう。
 あたしが今着ているのは、いつものスナイパー服ではなく、なんとも乙女チックな、ピンクのフリフリビキニだったのである。
「あ……う」
 かああっと顔が真っ赤になっていくのが、自分でも分かった。ううん、下手すると、顔どころか手足まで真っ赤かも。
「ち、ちょっと、エレメス! なにいつまでもガン見してんのよ!」
 あたしの声に、エレメスも、はっと我に返ったように首を振った。
「み、見てねえよ。別にそんな」
「ふん、どうだか。顔も目も、思いっきりあたしの方に向いてたじゃない」
「おい、あのな、妙な言いがかりつけてんじゃねーよ」
「言いがかりじゃないでしょ。あたしは事実を言ってるだけよ」
「何が事実だ、脚色入りまくりじゃねーか。つーかそもそも、お前の貧相な体なんか見てても、面白くもなんともねえっての」
「なっ……!?」
「しかも、よりによってそんなデザインの水着とはな。お前のその真っ平らな胸なら、ブラの部分なんざいらねーんじゃねーのか? どうしても隠したいってんなら、乳首のとこだけシールでも貼っときゃ充分だろ」
 かちん。
 と、あたしの中で、怒りメーターの針が一気にマックスへ振り切れた。さっきとは別の意味で、体の血が頭へと逆流していく。
「ふ……ふふ。エレメス、どうやら死にたいみたいね」
「あ、いや、すまん、言い過ぎた。今のは取り消しってことで」
 やばいと思ったのか、エレメスが慌てて言い繕う。
「うるさい! 問答無用っ!」
 あたしは愛用の剛弓を構え、狙い澄ました渾身の一撃をエレメスの脳天に撃ち込もうとして――
 すかっ。
 と、両手が空を掴んだ。
 弓を構えるはずの左手も、矢をつがえるはずの右手も、何もない空間を握っただけだった。
 あたしは、自分のうかつさに、思わずあっと声をあげそうになった。
 そう。
 その時のあたしは、いつも肌身離さず持っている弓矢を、装備していなかったのである。
 身構えていたエレメスが、恐る恐る顔をあげた。
 目があった。
「えっと、セシル……さん?」
 気まずい沈黙。
「……」
「……」
 そのまま、無言で見つめあう。
 と、なんだか急に、おかしさがこみ上げてきた。
 それは、エレメスも同じだったらしい。
「――ぷっ」
「くっ、あははは」
 と、どちらからともなく吹き出して、あたしたちは声をあげて笑った。
 そうして、ひとしきり笑い終えた頃にはもう、どうしてさっきまで言い争っていたのかなんて、すっかり忘れてしまっていた。
「はあ。それにしてもお前、自分が丸腰だってこと、完全に忘れてんのな」
「う、うるさいわね! しょうがないでしょ、装備なしで出歩くなんて滅多にないんだし」
「確かに、特にお前の場合は珍しいよな」
「うん。まあ、ね」
 エレメスの言うように、あたしは基本的に丸腰でいることはほとんどない。食事中や、寝ている時でも、常に弓矢は手の届くところに置いている。それはもう、意識してのことではなく、無意識の行動だ。身体に染みついた、癖のようなものと言えるかもしれない。
 だって、あたしの生きる場所は、戦場だったから。
 そう思った時――
 ちくり、と胸が痛んだ。
 嫌な記憶が蘇る。研究所に来る前の、血塗られた日々の記憶が。忘れたい、でも忘れることのできない、忌まわしい記憶。
「俺の場合は、ナイフだったな」
 ぼそりと、エレメスが呟いた。
「え?」
「昔は、便所に入る時だって、ナイフを握ってないと落ち着かなかった。風呂の中でも、布団の中でもな」
「――」
「怖かったんだろうな。もちろん、いつ襲われるか分かんねーってのもあったが、それ以上に……」
 そこまで言って、エレメスは口ごもった。その先を言いたくない、というよりは、どう言葉にしたらいいのか迷っている、そんな感じだった。
 ああ。
 なんだ、そうだったのか。
 と、あたしは思った。
 似ているのだ。
 コイツと、あたしは、似ているのだ。
 あたしも、怖かった。
 ううん。
 研究所で暮らすようになった今だって、怖い。
 だから、必要以上にぴりぴりして。
 何かすがるものがなければ、自分を保っていられなかった。
「……うん、分かるよ」
 あたしは言った。
 自分でも驚くくらい、穏やかな声だった。
「――」
「分かる。あたしも、そうだったから」
 あたしの言葉に、エレメスは、そうか、と呟いただけだった。
 ゆらゆらと揺れる水面に、きらきらと輝く月の光が綺麗だった。
 しばらくの間、あたしたちは無言のままぼんやりとプールを眺めていた。二人とも何も言わなかったが、重苦しい沈黙ではなかった。
 そのまま、どれくらい、そうしていただろう。
 黙りこくったまま、色んなことを考えていたような気もするし、何も考えていなかったような気もする。不思議な時間だった。
 先に口を開いたのは、エレメスだった。
「――にしても、お前も物好きだな。わざわざこんな夜中に、よ」
「なによ。それを言うなら、あんたもでしょ」
「この熱帯夜だ。クソ寝苦しい暑さだが、クタクタになるまで身体動かしゃ、すんなり寝れるだろうと思ってな」
「……はあ。呆れた発想ね」
「もっとも、コソコソ覗いてる誰かさんのお陰で、すっかり邪魔されちまったけどな」
 と、エレメスが笑いながら、わざと当てつけがましい口調で言う。
 うぐ。
 その誰かというのは、もちろん、あたしのことだ。
「う、うるさいわね。あたしだって、好きで覗いてたわけじゃないわよ。誰かの気配がしたから、ついとっさに隠れちゃっただけで」
「オーケー、そういうことにしといてやるよ」
「ていうか、あたしの方が先にプールに来てたんだから、邪魔したのはそっちの方ってことになるじゃない」
「はあ? いや、まあ、確かにそうか。でもよ、別に隠れる必要なんかねえだろ」 
「そりゃあ、だって、あたしは……」
 こっそり練習に来たから、なんて、言えるはずがない。
 あー、うー、とあたしが返答に困っていると、エレメスがやれやれ、とため息をついた。
「ま、大体想像はつくけどな。セシル、お前、泳げねえんだろ?」
「ほあっ!?」
 あたしは思わず、意味不明な叫び声をあげてしまった。
「やっぱりな。当たりか」
「なななな、何を根拠にそんなことをっ!」
「いや、別に根拠なんかねえよ。最初にプールを見たときから、お前の態度が妙だったからな。そうじゃねえかって思ってただけだ。もっとも、今のリアクションで確信したけどな」
 あたしは何か言おうとしたけれど、口がぱくぱくと動いただけで、声にならなかった。頭の中がぐるぐると回って、軽いパニック状態になってしまっている。
 知られてしまった。
 しかも、よりによって、一番知られたくなかったコイツに。
 ううん、それだけじゃない。最初から感づいていたなんて。だとしたら、必死に隠し通そうとしてきたあたしは、とんだピエロだ。
「安心しろ。感づいてるのは、多分俺だけだ。他の連中は鈍いからな」
「あ……うん」
 混乱した頭のまま、曖昧に頷く。
 そんなあたしに、エレメスはやや呆れたような目を向けた。
 はあ、と大げさにため息をつく。
「まったく、別に気にする必要なんざねえだろうに。泳げないくらい、どうってことねえだろうが」
 事も無げに、エレメスが言う。
 その口調があまりにもあっさりとしていて、あたしの中で張り詰めていた何かが、ぷっつりと切れてしまった。
「なっ……、あんたねえ、あたしが今まで、どんな気持ちでずっと隠してきたか、分かってんの!?」
 叫んだ。
 思い切り感情を吐き出した途端、視界がじわりと歪んだ。
 何かが、頬を伝い落ちていく感触。
 ああもう。
 自分の情けなさに、とことん嫌気が差してくる。逆ギレして泣き出すなんて、まるで子供のようだ。
「分かってるさ。分かった上で言ってんだ」
 と、エレメスはあたしに向かって、まるで握手でも求めるように手を伸ばした。
「来いよ。練習しに来たんだろ? 独学よりも、コーチがいたほうが上達が早いぜ」
「……え?」
 あたしは、差し出された手を、戸惑いながら見た。
「泳げないくらい、どうってことねえよ。そんなものは、乗り越えりゃいい。そうだろ?」
「――」
 エレメスの顔を見つめる。その顔は真っ赤だった。自分でも、クサい台詞だと思ったらしい。あたしと目が合わないよう明後日の方を向いて、ちっ、としきりに舌打ちをしている。
 その様子がおかしくて、あたしは思わずぷっと吹き出した。
「わ、笑うんじゃねーよ、人が真面目に言ってんのに」
「ああ、ごめんごめん。あんたがあんまり似合わない台詞言うもんだからさ」
「ちっ。分かってるよ、らしくねえってのは」
 エレメスは言って、ぶんぶんと頭を振った。
「あー、畜生。らしくねえついでに、もう一つだけ言っとく」
「うん?」
「ええと、お前の水着、な。さっきはついああ言っちまったけど、その、結構似合ってると思うぜ。その、可愛いと思う」
 それは本当に不意打ちで、あたしは今度こそ唖然として、その場に硬直した。
 その状態のまま、エレメスの顔を見つめる。
 赤い。耳まで真っ赤だ。まるで、ゆでエレメスにでもなってしまったかのようだ。もちろん、プールの中身は熱湯なんかじゃなく、ただの冷水なんだけど。
 そして、きっとあたしも、同じように真っ赤な顔をしているに違いない。なんてことだ。スナイパーのあたしが、一発で狙撃されるなんて。
 本当に、らしくない。
 コイツも、あたしも。
 きっと今夜は特別な夜で、不思議な魔法がかかっているのかもしれない。
 ふと、そう思った。
 だとしたら。
 その魔法に酔ってみるのも、悪くない。
 あたしは、ぐい、と目元をぬぐった。
 水際にしゃがみ込み、そっとエレメスの手を握る。
 天窓から差し込む光を反射して、月があたしたちの間の水面に浮かんでいる。まるで月を越えて手を繋ぎあっているような、そんな気がした。
 恐る恐る、水の中に足を入れる。
「今日だけ、だからね」
「ああ」
 繋いだ手に、ぎゅっと力を込める。
 肌に触れる水の冷たさが心地よかった。
 
 
  /5


「みんな、すまん! この通りだ」
 ハワードが、深々と頭を下げて、土下座している。
 その横では、アルマイア=デュンゼが、不貞腐れた顔をして座っていた。
「ほら、アルマ。お前も謝れ」
「はいはい、うちが悪うござんした」
「馬鹿野郎、そんなんじゃ謝ったうちに入らねえだろうが!」
 形ばかりに下げたアルマの頭を、ハワードがさらに深く押し下げる。アルマの額が、ぐりぐりと床に擦りつけられた。
「痛っ、痛いってば兄貴! わかった、ごめんなさい、ほんまに反省してるって!」
 あたしたちは、あっけに取られたまま、その様子を見つめていた。
「はあ、まさか、盗撮とは思いつきませんでしたわ」
 マーガレッタが、感心したように言う。まるで先に思いついていたら、自分もやっていたとでも言わんばかりだ。
 そう、盗撮。
 なんと、アルマは、プールのあちこちに隠しカメラを仕掛けて、生体研究所メンバーの水着姿を、こっそり撮影していたらしい。
 しかも、その映像を売りさばいて、一儲けするつもりだったとか。
 まあ、確かに、妙だとは思っていた。
 普段あれだけ金にうるさいアルマが、ああも気前よく無料で水着を提供してくれたのだ。なにか裏があるんじゃないかと思ってはいたけれど、まさか、それが盗撮目的だったなんて。
「全く、けしからん。セニアの水着姿を勝手に撮影していたなどと」
 憤慨した口調で、セイレンが言う。
「本当に、申し訳ねえ。データは残らず全部、俺が責任を持って破棄した」
 ハワードが、もう一度頭を下げる。
「ぐはっ!? なん……だと、そうか、破棄した……のか」
 セイレンの体が、ぐらりと揺れた。顔色は平静を装っているが、結構なダメージを受けたらしい。あわよくば、セニアの映像をもらおうとでも思っていたのだろう。相変わらずこの男は、考えていることがわかりやすい。
 カトリーヌは、いつも通りぼんやりと眠そうな顔をして、成り行きを見守っている。まあ、食べ物以外には基本的に無関心なので、今回のアルマの盗撮騒ぎにも、特に何とも思っていないのだろう。入浴中に間違えて男性陣が入ってきても、全くノーリアクションだったりするし。
「――」
 エレメスは、そわそわと落ち着かない様子で、しきりに膝を揺すっている。
 無理もない。あたしだって、内心は冷や汗ものだ。
「ほれ、アルマ。次は二階の連中に謝りにいくぞ」
 ハワードが立ち上がり、アルマの体を引っ掴んで歩き出す。
「あ、ちょっと待って、ハワード」
 と、あたしはハワードを呼び止めた。
「うん? なんだ、セシル」
「その、ホントに、映像は全部消したの?」
「ああ。間違いねえ」
「……中身は、見てない、よね?」
「当たり前だ。仕掛けてあったカメラごと、俺がハンマーフォールで粉々にぶっ潰した」
「そっか。ううん、ならいい」
 ほっと胸をなで下ろす。
 そんなあたしに、ハワードは少し怪訝そうな顔をしたが、すぐにまたアルマを引き連れて、二階へと去っていった。
 それを見送ってから、
「――だってさ」
 と、あたしは横のエレメスを肘で小突いた。
「はあ。助かったぜ」
 エレメスが、大きく息を吐きながら言う。
「ちょっと。その助かった、っていう言い方、なんか引っかかるんだけど?」
「あ、いや、別に深い意味があったわけじゃねえが」
「ふーん。どうだか」
「つーか、助かったのはお前の方じゃねえのか」
「ま、確かに、ね」
 助かったと言えば、その通りなんだろう。
 あの日以来、あたしはみんなと一緒に、たまにプールで気晴らしをしたりしている。さすがに、いきなりエレメスのようには泳げなかったが、それでも、マーガレッタやカトリーヌよりはずっと上手くなった。お陰で、あたしがつい先日まで全く泳げなかったということを知っているのは、誰もいない。
 ただ一人――エレメスを除いては。
 あの夜に重ねた、二人だけが共有する、秘密の出来事。
 けれど、だからといって、あたしたちの距離が変わったわけでもない。
 これまでと同じ。しょっちゅうぶつかりあって、お互いにつまらない意地を張り合って。
 変わらない日常。変わらない距離。
 それに対して、特に不満があるわけじゃない。
 日常なんてそんなものだし、それでいいのだと、そう思う。
 でも――
 本当に、ちょっぴりだけど、心の片隅で思うのだ。もし、あの夜のことがみんなにバレたら、どうなるんだろうって。
 その想像は、あたしをぞくぞくとさせる。
「けどまあ、想像して楽しむくらいが丁度いいわよね」
 あたしは呟いた。
 爆弾は、爆発する前だからスリルがあるのだ。爆発してしまったら、元も子もない。
「……想像? 何をですか?」
 マーガレッタが、きょとんとした顔であたしを見つめる。
「別に、何でもないわよ。さ、行こう、マガレ」
「うー、気になりますわ。セシルちゃんがこんなに楽しそうにしてるなんて」
 楽しい、か。
 うん。確かに。
 思えば、研究所に来たばかりの頃は、こんな気分になったことなど一度もなかった。  いつの間に、あたしはこんなに笑うようになっていたのだろう。
 ああ――
 そうか。そうなんだ。
 ふいに、あたしは理解していた。
 変わらないように見えて、あたしたちの日常は、少しずつ変わっていってるのだと。
 だったら、慌てることはない。時間はいくらでもある。一足飛びにはいかなくたって、あたしたちは変わっていく。
 明日はきっと、今日より楽しい。
 そう思いながら、あたしは颯爽と歩き出した。


 END