バレンタインdeはるちは

  バレンタインdeはるちは


 レッスンを終えてスタジオを出ると、外はすっかり暗くなっていた。身を切るような風が吹き抜け、マフラーを巻いた首を思わずすくめる。二月に入ったとはいえ、冷え込みはまだ厳しい。それでも、名残惜しそうに夜空の端を染めた夕焼けの残滓が、遠くない春の訪れを感じさせる。
 近づいてくる季節の足音が心を弾ませるのだろうか。いつもと変わらないように見える街の喧噪も、どこかうきうきとしているような気がする。傍らを通り過ぎた家族連れの楽しげな笑い声が耳に残り、如月千早は一人、深々とため息をついた。
 カラータイルが敷き詰められた歩道を足早に歩きながら、携帯電話のボタンを押す。一度目のコール音が鳴り終わらないうちに「はい、もしもし」と声が返ってきた。
「もしもし、春香?」
「千早ちゃん」電話の相手――天海春香が明るい声をあげた。「良かった、連絡とれないからどうしたのかと思っちゃった」
「ごめんなさい、レッスンが長引いてしまって」
「ううん、気にしなくていいよ」
 そう言ってくれる春香の優しさに、却って心が痛んだ。繋がらない携帯を握り締めながら、ずっと待っていたのだろう。申し訳なさで胸が詰まりそうになり、千早は自分の身勝手さに辟易した。
「ええと、それで、今日の予定なのだけれど」
「私なら大丈夫。お母さんには泊まってくって言ってあるから」
「そう。じゃあ、遅くなってしまったけれど、今からそちらに向かうわね」
「うん、待ってるね」
 通話の切れた携帯電話をカバンの中に仕舞い、千早はもう一度ため息をついた。
 どうして自分はこんなにも不完全なのだろう。それが原因で春香に迷惑をかけてしまったのだと思うと、いつも以上に自分に幻滅する。
 ぼんやりと夜空を見上げる。いつもは濁った都会の空に、今日は珍しくいくつかの星が瞬いていた。
 少しでも早く帰ろうと、タクシーを拾って事務所に戻った。プロデューサーに報告を済ませてから、待ち合わせ場所の駅前に向かう。
「千早ちゃん!」
 千早の姿を見るなり、春香はぱっと顔を輝かせ、飛び跳ねるようにぶんぶんと手を振った。人混みの中でも一際目立つその仕草に、周囲の何人かが怪訝そうな目を向ける。
「ちょっと、春香」
 慌てて駆け寄る。売り出し中とはいえ、二人とも現役のアイドルなのだ。街中で人目を引くようなことは慎むようにと、日頃から指導されている。
「えへへ、ごめん。つい」
 と、春香がぺろりと舌を出す。その無邪気な笑顔に毒気を抜かれ、注意する気も失せてしまった。
「まったく、もう」
 つられて、千早も苦笑する。
 春香はダッフルコートの首元にマフラーを巻いていた。昨年の暮れに二人で一緒に買いに行った、お揃いのマフラーだった。こうして並んで歩くと、少しの気恥ずかしさはあるけれど、それ以上に心地よい暖かさがじんわりと身体を包んで、悪い気はしなかった。
「千早ちゃん、晩御飯は食べた?」
「いいえ、まだだけれど。春香は?」
「ううん。私もまだ」
「じゃあ、先にどこかに食べに行きましょうか」
「でも、材料を買いに行く時間、大丈夫かな」
「平気よ。特設売り場のあるフロアは、九時まで営業しているはずだから」
 腕時計に目を落とす。時刻は七時を回ったところだった。
「そっかあ、良かった」春香が嬉しそうな顔をする。「実はさっき、いい感じのお店見つけたんだ。ね、そこ行ってもいい?」
「ええ。私は、どこでも構わないけれど」
「やった! じゃあ決まりね」
 その店は、駅から少し歩いたところにあるカフェレストランだった。内装はダークブラウンを基調とした渋めの配色でまとめられており、落ち着いた雰囲気の店内に、静かにショパンのピアノが流れている。
「へえ、春香って、こういうお店が好みなの?」
「うん。えっと、じゃあこれお願いします」
 注文を取りに来たウェイターに、春香はメニューから特盛りパフェを指さした。
「もう、春香ったら。デザートから注文するなんて」
「だって。美味しそうだったんだもん」
「本当はあなた、このパフェが目当てだったんでしょう」
「えへへ」
 食事をしながら、話題は自然と、これから作るチョコレートに向かった。二人であれこれと色んなチョコレート菓子の名前を挙げ、どんなものを作るかイメージを膨らませていく。さすがに春香はチョコレートについての知識も豊富で、千早は何度も心の中で嘆息した。
 やっぱり春香に頼んで良かった。千早はそう思った。
 千早にチョコレート作りの経験はなかった。そもそも、バレンタインに誰かにチョコレートをあげたことさえもないのだ。
「まったく、誰がこんなこと言い出したのかしら」
 思わずそう呟く。
「バレンタインデーのこと? お菓子屋さんの陰謀なんじゃないかな」
「違うわよ。事務所のみんなで、手作りチョコの交換会をしようっていうこと」
「ああ、それかぁ」春香は首を傾げた。「うーん。私もその時に事務所にいたわけじゃないから、よく知らないんだけど。美希なんか『男の人ばっかりチョコもらってずるいの!』とか言いそうだよね」
「そうね」
 春香の声真似が意外に上手で、千早はくすっと笑った。確かに彼女ならば、そんなことも言いそうだ。
 765プロでは、今度のバレンタインデーに、みんなで手作りのチョコを持ち寄って交換し合おうということになっていた。バレンタインの話題で盛り上がっているうちに、話の流れでそういうことに決まったのだという。千早はレッスン漬けであまり事務所のみんなと話す機会がなかったため、その計画を聞かされたのは、つい二日前のことだった。
「でも、楽しみだな。千早ちゃんのチョコ」
「あんまり期待しないでよ、初めて作るんだから」
「大丈夫だよ。春香さんに任せなさい」と、春香が胸を張る。「千早くん、キミには私の技術の全てを伝授して進ぜよう」
「ふふ。うまくできなかったら、春香のせいにしちゃおうかな」
「ええっ、そんなぁ」
「冗談よ、作るのは私だもの。ベストを尽くすわ」
 食事を終えた二人は、駅前のデパートに向かった。バレンタイン商戦まっただ中ということもあって、店内にはチョコレート専門の売り場ができている。手作り志向の客にむけた材料コーナーも充実していた。その中から、春香は手際よく必要なものを選んでいく。
 そんな春香の姿を、千早は頼もしげに見つめた。自分一人で来ていたら、きっと途方に暮れていただろう。
「うん、こんなものかな」
 両手に買い物袋を提げ、二人は千早の家に向かった。電車にしばらく揺られてから、線路沿いの道を並んで歩く。立ち並ぶ古びた街灯の明かりは弱々しく、電車の車内から洩れる光が、二人の横顔を照らしては通り過ぎた。
 ほどなく千早の家が見えてきた。この時刻だというのに、窓に明かりはなかった。カギを開けようとキーを取り出す。硬い金属の感触が指に冷たかった。千早がドアを開けて中に入ろうとした時、春香が待って、と声をあげた。
「どうしたの、春香」
 びっくりする千早を手で制して、春香は先に玄関に入った。くるりと振り向いて、にっこりと笑顔で千早を見つめる。
「おかえりなさい、千早ちゃん」
「あ、ええと」千早はどぎまぎしながら呟いた。「ただいま」
 言ってから、不思議な温度が胸に広がるのを感じた。初めて触れる温度ではなかった。けれど、それはずっと長い間、どこか遠い彼方に忘れていたもののような気がした。
「えへへ。ちょっと恥ずかしいね」
 春香が照れ笑いを浮かべる。
「もう、春香ったら。いきなり何かと思ったじゃない」
 自然と顔がほころぶ。春香と一緒にいると、いつもこうだ。
 買ってきた食材と調理器具をテーブルに並べ、チョコレート作りに取りかかる。レストランで話し合った結果、メインはチョコトリュフを作ることに決まっていた。
「それじゃあ、チョコ菓子作りの第一歩。板チョコを刻んで細かくするところから」
「刻むって、包丁で?」
「そう。大きいままだと、溶けにくいでしょ?」
「なるほど、それもそうね」
「なるべく、粒の大きさを揃えてね。溶け方が均一じゃないと、ダマになっちゃうから」
 春香が慣れた手つきで板チョコを刻んでいく。千早も、見よう見まねでそれに倣った。二人の前にそれぞれ置かれたボウルが、砕かれたチョコでいっぱいになっていく。
 その作業が終わると、次は鍋の出番だった。
 生クリームを火にかけて、沸騰させる。それを砕いたチョコの入ったボウルに注ぎ入れ、チョコレートが溶けてなめらかなクリーム状になるまで混ぜ合わせる。
「うん、これくらいでいいかな」
 硬さを確かめながら、春香が呟く。
「これがガナッシュって言って、トリュフの中身になるの。これだけで食べても美味しいんだけどね」
「へえ」
「じゃあ、一個ずつの量に分けて行こうか。千早ちゃん、クッキングシート広げて」
「はい、先生」
 千早がそう言うと、春香はうむ、と仰々しく頷いた。すっかりその呼び方が気に入ったらしい。
 半固形状態のガナッシュをスプーンですくって、等量ずつシートの上に置いていく。
「春香、トリュフって丸いものだと思うのだけれど、これで良いの?」
「うん。それはもうちょっと冷やし固めてから、手で丸めるの」
 春香も同じように、ガナッシュを取り分けている。ただしあちらは、社長用にラム酒を混ぜたものだ。芳醇な甘い香りが、千早のところまで漂ってくる。
 小分けにしたガナッシュを冷蔵庫に入れて、今度はコーティングに使うチョコレートの準備に取りかかる。
「千早ちゃん、知ってる? チョコレートを溶かす時は、直接火にかけちゃダメなんだよ」
「もう、春香ったら。それくらい私だって知ってるわよ」千早は湯せんの用意をしながら言った。「でも、事務所の他の子たちはちゃんと作れるのかしら。とんでもないものを食べることとにならなければいいのだけれど」
「うーん、どうかなぁ。小鳥さんはすごい上手いらしいけど」
「へえ、そうなの」
「ロマンチックなバレンタインを夢見て手作りの練習してるうちに、プロ級の腕前になったんだって」でも、と春香が続けた。「まだ実際に誰かにチョコをあげたことはないみたい」
「それは、ええと、音無さんらしいわね」
 砕いたチョコの入ったボウルを、お湯を張った一回り大きなボウルに浸す。すぐにチョコが溶け出し、なめらかな液体へと変化していく。
「チョコレートは温度管理が大切だからね」どろどろになったチョコの中に差し入れた温度計をじっと見つめながら、春香が言う。「テンパリングっていって、まず四〇度くらいまで温めて全部溶かしてから、氷水でちょっと冷やして、それからまた温めるの」
「ふうん。どうしてそんなことを?」
「チョコの結晶を安定させて、艶のある仕上がりにするんだよ」
「なるほど」
 春香がタイミングを指示して、テンパリングは問題なく進んだ。
「うん、オッケーかな」春香が、指先でチョコをすくいとって、千早の前に差し出す。「はい、千早ちゃん、味見」
「ちょっと、春香ったら」
 恥ずかしそうに、体を仰け反らせる千早。
「ダメだよ、こまめな味見が美味しく作る秘訣なんだから。はい、あーん」
「もう、わかったわよ」
 はむっ、とチョコの絡んだ春香の人差し指を口に含む。香ばしいカカオの風味と、柔らかな甘みが口の中に広がった。
「美味しい?」
「んむ」
 答えようとしたが、指を咥えたままでは声が出せなかった。代わりに、こくん、と頷いて意思表示する。
「えへへ」春香がすっと指を引いて、自分の口元に運んだ。ちゅっと口づけるように、残ったチョコを舐め取る。「うん、美味しいね」
 その仕草が何故だか妙に官能的に見えて、千早は一人で顔を赤くした。
「そ、それにしても春香。チョコの分量についてだけれど、これはちょっと多すぎるんじゃないかしら」
「うん。せっかくだから、トリュフ以外にも色んなものをコーティングしようと思って」
「なるほど、それで」と千早は納得した。そういえば、トリュフにはまるで使わなさそうなものも、あれこれと買い込んでいたっけ。それは、このためだったのか。
「それに、コーティングを綺麗にするためのコツは、チョコレートを惜しまず使うことなんだよ」
 見ててね、と言いながら、春香は買ってきたクッキーを、バットの上に乗せた網に並べた。その上から、お玉ですくったチョコレートを、どばっと流しかける。
 なめらかなチョコの皮膜がクッキーを覆いつくし、溢れた余分なチョコがぽたぽたとバットの上に落ちた。
「と、こんな感じ」
 はい、とお玉を手渡され、千早もコーティングに挑んでみた。確かに、溢れて落ちるチョコがもったいないなどと言っていては、ムラなく全体をコーティングすることはできない。
「私、てっきり溶けたチョコの中に浸すものだと思っていたわ」
「チョコフォンデュみたいに?」
「ええ」
「それだと、チョコレートに異物が混じったり、温度が変わっちゃったりするから、失敗しやすいの」
「なるほど、確かにそうね」
 クッキー以外にも、ドーナツやバウムクーヘン、いちごやバナナなどのフルーツ、果ては甘納豆やかりんとうといった和菓子まで、様々な食べものにコーティングを施してみることになった。
「春香、さすがに、後半のラインナップはどうかと思うのだけれど」
「うーん、雪歩が喜びそうかなって」
「だからといって、醤油せんべいはやりすぎじゃないかしら」
「あ、あはは。まあね」
 ひととおりの食材をコーティングし終えたところで、本命のトリュフ作りを再開することになった。冷蔵庫から取り出したガナッシュを手のひらで転がし、丸く形を整える。体温でチョコが溶けてしまうのを防ぐため、手を氷水で冷やしながらの作業となった。
「えいっ」
「きゃっ!?」
 途中、春香からお約束の首筋ひんやり攻撃を受けたりしつつ、全部のガナッシュを丸め終えた。
「これも、さっきまでと同じように?」
「ううん、これはもう最後だし、溶けたチョコの中にくぐらせて、一気にコーティングしちゃえばいいよ」
「分かったわ」
 だいぶ目減りしたボウルの中のチョコに、丸めたガナッシュをさっと通す。表面の仕上げはココアパウダーをまぶすのが一般的だが、今回は小さなカップの中に入れて、その上にデコレーションを施すことした。
 コーティングのチョコが固まりきる前に、手早くチョコペンで模様を描き、カラーシュガーを振りかける。単純なようで意外に難しく、千早は思い通りの形を作り上げるのに苦労した。一方、春香はさすがに手慣れていて、可愛く飾り付けられたチョコレートは、お店で売っていてもおかしくない出来映えだった。
「よし、これで完成っ!」飾り付けを終えたチョコトリュフをぐるりと見回し、春香は胸の前で手を合わせた。「さあ、千早ちゃん。試食タイムだよ、試食タイム!」
「ちょっと春香、バレンタイン当日の分もちゃんと残しておかなくてはダメよ」
「うんうん、分かってるよぉ」
「はあ、本当かしら」
 二人はできあがったチョコをいくつか小皿に取り、千早の部屋に移動した。
 生活感の希薄な、殺風景な部屋だった。目につく調度品といえば、ベッドと質素なタンスが一つ、それにコンポくらいしかない。
 それでも、近頃は春香がよく遊びにくるせいで、少しずつあれこれと物が増えてきている。かつての千早からは考えられないことだったが、そんな雑多な賑やかさも、今は嫌いではなかった。
 ベッドの端に、並んで腰を下ろす。二人分の体重に、スプリングが小さく軋み音を立てた。
「えへへ、作るのも楽しいけど、やっぱり食べるのが一番の楽しみだよね」
「そうね」
「ね、じゃあ、食べさせっこしようか」
「えっ?」
「はい、あーんして」
 春香が自分の作ったチョコをつまんで、千早の口元に持っていく。
 さっきの味見にしてもそうだが、春香はこうしたスキンシップが大好きで、よく千早にねだってくる。千早は当初、恥ずかしいから苦手だと拒否していたのだが、いつも春香に押し切られる形でそれに付き合っているうちに、最近ではそれほど抵抗も感じなくなってきていた。
「もう、しょうがないわね」
 千早は苦笑して、あーん、と口を開けた。
「んっ」
 ぱくん、と目の前のチョコに咥えつく。
「あ、おいしい」
 思わず声が出た。自分が作ったというのが信じられないくらい、それは本当に美味しかった。
「春香、これ、とてもおいしいわよ。春香も」
 食べてみたら、と言おうとした時だった。ふいに春香の顔が近づき、唇に柔らかなものが触れた。
「んっ!」一瞬驚いたが、抵抗はしなかった。代わりに、目を閉じてふっと体の力を抜く。それは暗黙の了解だった。
 春香の手がそっと千早の肩に触れ、その体を抱き寄せた。
「ちゅっ、んむ、れるぅっ」
 春香の舌が唇を割って入り込んでくる。千早もそれに応じ、溶けたチョコレートが、ねっとりと二人の舌に絡みつく。混ざり合った唾液の味が、いつも以上に甘かった。互いを舐る二つの舌先が、チョコレートだけではなく、体の芯も少しずつ溶かしていく。
「くちゅっ、んんふ、はぁっ」
 唇と唇が触れ合い、舌と舌が絡み合う。呼吸が一つに重なり、二人は時の経つのも忘れたようにお互いの口内をまさぐり合った。
「ぷはぁ、ん」
 ようやく唇が離れ、二人は鼻先が触れ合いそうな距離のまま見つめ合った。
「もう、春香ったら。いきなりなんだから」
「びっくりした?」
「当たり前じゃない」
「ね、千早ちゃん」春香が熱っぽい目を向ける。「しよ?」
「でも、チョコの試食はどうするの?」
 そう言ってはみたものの、千早もすでに自らの体に熱い火照りが生まれていることを自覚していた。そもそも、二人でチョコレート作りをしようと言っていた時から、今日はこうなるだろいうというのは分かっていたし、また千早自身も、心のどこかで期待してもいた。
「だって千早ちゃん言ってたでしょ、デザートはあとでって」
「もう。私はメインディッシュっていうわけ?」
 春香の鼻先を指先でつん、と突っついて、千早は腰を上げた。
「じゃあ、先にシャワー浴びてくるわね」
「うん」
 レッスンでかいた汗を流し、細部を念入りに洗う。バスタオルを巻いて自室に戻り、入れ替わりで、今度は春香が部屋を出た。
 廊下の向こうから、春香がシャワーを使う音が届いてくる。それをぼんやりと聞きながら、千早は独り、ベッドに身体を横たえた。
 実際にはほんの数分のことなのかもしれないが、こうして春香を待つ時間はとても長く感じられる。緊張と興奮で身体が自然と熱くなり、そわそわと落ちつかない。早く春香に戻って来て欲しいと思いながら、一方で、このまま戻ってこなければいいのに、なんて思っている自分もいる。
 待ちきれない、逃げ出したい。それはステージ前の控え室に似ているかもしれない。相反する矛盾した感情の螺旋。けれど、人の感情などお構いなしに、時間は確実に、平等に過ぎてゆく。やがてシャワーの音が止み、春香が部屋に戻ってきた。
「お待たせ、千早ちゃん」
「あ、うん」
 上体を起こした千早の傍らに、春香はちょこんと腰掛けた。千早と同じくバスタオル姿だった。石鹸のいい匂いが、ふわっと漂ってくる。
 そっと肩を抱き寄せられ、千早は春香に身体を預けた。はらりとバスタオルの落ちる音がして、薄闇の中に二人の白い裸体が浮かび上がる。
「んっ、ちゅ」唇を重ね、お互いの体を結び合う。「んふ、はぁっ」
 チョコレートの味はしないけれど、それでも充分に甘いキスを交わす。ぴちゃぴちゃと唾液を混ぜ合う音が耳に届き、それに興奮している自分を自覚する。
 不思議だな、と千早は思った。さっきまであれだけごちゃごちゃと渦巻いていた思考が、こうやって春香と肌を触れ合わせていると、もう遠い昔の出来事のような気がしてくる。
 後ろから抱きすくめられながら、うなじから首筋にかけて、何度もついばむように口付けされた。そこが弱いと知っているのだ。自室はまだ暖房が充分に回っているとはいえなかったが、寒さは感じなかった。背中に押し付けられた重量感のある膨らみから、春香の体温が伝わってくる。
「んっ!」唾液に濡れた首筋にふっと吐息を吹きかけられ、千早はぞくんと首をすくめた。一瞬感じた冷やっこさが、甘い痺れとなって拡散していく。「はぁっ、ぁ」
「ふふ、可愛い声」春香がくすっと微笑む。「千早ちゃん、相変わらず敏感だね」
「もう。春香ったら、知ってるくせに」
「ううん、まだ足りないよ」春香の指先がつっと肌の上をすべり、脇腹からおへそへと伝ってゆく。「もっと知りたい。千早ちゃんのこと」
 その指先がふいに手のひらに変わり、千早の小さな乳房を包み込んだ。中央の桜色をした突起が人差し指と中指の間に捕らえられ、きゅっと摘み上げられる。
「くぅんっ!」
 電気が流れたように、身体がびくんと反応する。それを楽しむように、春香は幾度もくりくりと乳首をこね回した。
 同時に、首筋をちゅうっと吸い上げられ、千早はぞくぞくと身体を震わせた。甘噛みされた肌の上を、次は柔らかな舌先が慈しむようになぞってゆく。こんなにも、と驚くほどに、自分の身体が刺激に対して鋭敏に反応するのが分かる。肉体の奥に潜んでいた快楽を感じる神経が、皮膚の上に直にさらけ出されたかのようだった。
 春香の指先が肌を這い、足の付け根に潜り込んだ。一瞬の抵抗はそこに触れられることではなく、そこが既に熱く潤み始めていることへの羞恥心からだった。
 幾重にも折り重なった複雑な肉のクレヴァスを、春香の指先が丁寧になぞってゆく。ぬるりとした感触を確かめるように何度も往復し、時折浅くつぷりと先端が中に沈む。
「はっ、あ、ひぁあ」意識せずに、声が洩れていた。平時の自分ならば、絶対に他人には聞かせたくないであろう、甘くとろけたような声。でも今は、それを抑えることなど不可能だった。「ふぁあっ、あっ、ん!」
「千早ちゃん、もっと千早ちゃんの声を聞かせて」
「うん、うんっ、春香ぁっ」
 春香が体を入れかえて、千早はベッドの上に仰向けに寝転がった。広げられた両脚の間に、春香が顔を埋める。恥ずかしさに身悶えそうになったが、それ以上に、春香の前に全てをさらけ出す悦びが勝っていた。それはある種の儀式にも似ていた。千早自身さえも知らない自分。それを春香にさらけ出すことで、自分は本当に春香のものになれる。そのための儀式。その思考はどこか危うさを孕んで、震えが来るような甘美な思いを千早にもたらした。
 ああ。
 他の誰にも触れられたことのない柔肉の綻びに、春香がつぅっと舌を這わせる。あたたかな温度。
「んぁぅっ!」
 舌先が女芯に触れる。熱くとろけた肉穴器官の奥から、じわりと淫蜜が溢れ出してくるのが分かった。
「んむ、ちゅくっ、んふっ」くちゅくちゅと肉の泉を舐め上げる春香の舌が、淫らな水音を響かせる。甘い震えが無限に肉体を駆け抜けていく。快楽の塊を脊髄の中に流し込まれているかのようだった。自分の身体が、意思や理性とは無関係に、単純で純粋な肉の悦びに覆い尽くされていく。
「はぁっ、あ」春香が唇を離し、恍惚と上気した顔を千早に寄せた。ぎゅっと抱き合い、濡れた舌と舌を絡ませる。薄く汗ばんだ肌がぬるぬると滑り、ぷっくりと硬くなった互いの乳首を、夢中になって擦りつけ合う。「んんむ、ちゅっ、くちゅる、ちゅぱ」
 つぷん、と舌よりも硬いものが、自分の中に沈み込むのを感じた。それが春香の指だということは分かったけれど、どの指なのか、何本の指なのかは分からなかった。もはや思考は理解を放棄して、くるくると舞う小さな木の葉のように、送り込まれる快楽の津波に溺れている。
「はふぁ、んんぁっ、あっ、あ!」
 春香の指先が、肉体の内側をなぞってゆく。とろけきった膣内を掻き混ぜられながら、しかし千早は体中を内側からくまなく撫で回されているような錯覚を感じていた。どれだけ息を吸っても足りない気がして、ありったけの酸素をかき集めようと、口をぱくぱくさせてもがく。だが千早の口は息を吸うことを忘れてしまったかのように、言葉にならない声を吐き出すばかりだった。
 ああ、春香。
 はるか。
 はるか。
 リフレインするそれが思考なのか、呟きなのか、あるいは叫び声なのか。もう千早自身にも分からなかった。重力の感覚すら消えてなくなり、精神と肉体は永遠に続く無限落下の途中にいる。その中でただひとつだけはっきりと感じる、春香の存在。全てを真っ白に焼き尽くす絶頂のさなかにあって、それが千早をこの世界に繋ぎ止める唯一のものだった。それにすがるように、強く、強く春香の体にしがみつく。
 びく、びくん、と激しく身体を震わせて、千早はオーガズムに達した。春香がその体を優しく包むように抱きしめ、緩く指先を繰って余韻を長引かせる。
 やがて荒れ狂う嵐が過ぎ去って、彼方に飛んでいた意識がゆっくりと戻ってきた。夢見ていたような瞳が焦点を取り戻すと、そこには静かに微笑む春香の顔があった。千早の胸にたまらない幸福感が迫ってきて、せっかく焦点を結んだ視界がまたぼやけた。
 しばらくは全身を心地よい気怠さが包んでいて、手を持ち上げるのも億劫だった。春香のほうはまだ元気らしく、身体を起こして傍らの机においてあったチョコをつまんでいる。メインディッシュの次はさっそくデザートということだろうか。まったく春香らしい、と千早は苦笑した。
「はい、千早ちゃんも」
「んっ」
 口元に差し出されたチョコをぱくんと頬張る。疲労した身体にチョコレートの甘さがしみじみと染み渡っていく。
「千早ちゃん、せんべいチョコも結構いけるよ」チョコレートでコーティングした醤油せんべいをぱりぱり頬張りながら、春香が言った。
「本当、塩味がいいアクセントになっているわね」
 やがて汗ばんだ肌がひんやりと冷えてきて、二人は毛布の中にもぐり込んだ。
「千早ちゃん」春香が、千早の頭をそっと撫でながら言った。「今度の新曲、難しいみたいだね」
 軽くまどろんでいた意識が、はっと引き戻された。
「春香、どうしてそれを?」
「分かるよ」春香はそう言って、ふふっと微笑んだ。「だって私は、千早ちゃんを一番近くで見てるから」
 春香の言う通りだった。新曲のレコーディング期限が迫っているのに、いまだに千早は納得のいく歌唱ができていなかった。それで今日も、居残りしてまでレッスンを延長してもらったのだ。
 プロデューサーからは、技術的なものではない、と言われている。けれど、千早にはどうしていいか分からなかった。ただ分かっているのは、自分には何かが欠けているということだけだった。
「ねえ」春香が言った。「一緒に歌おっか、その曲」
「そんな、もう真夜中よ」
「いいじゃない。ちょっとだけ」
「もう、しょうがないわね」
 音が洩れないよう二人ですっぽりと毛布にくるまり、その中で千早は、小声で新曲のメロディを口ずさんだ。春香がそれを真似て、そのまま即興でささやかなデュエットがはじまった。
 乗ってきた春香が次々と違う曲をリクエストし、千早もそれに応えて色々な曲を歌った。そうしているうちにふと、千早の脳裏に浮かんでくるものがあった。
 そういえば以前にも、こんな風に布団の中で歌ったことがあった気がする。
 なんだろう、この気持ち。
 湧き上がってくる感情を、うまく言葉にすることができない。きっと昔こうやって歌っていた時も、同じ感情を抱いていたはずだ。自分はそれを知っている。なのに、言葉にすることができない。そのもどかしさに千早が困惑していると、春香がぽつりと呟いた。
「楽しいね、千早ちゃん」
「たのしい?」
「うん」
 そう言って、春香は笑った。
 ああ、そうか。
 そうなんだ。
 その言葉は、はじめからそこにあったように、すとんと千早の中におさまった。
 もう大丈夫だ。そう思った。次はきっと歌える。
「ありがとう、春香」
「何のこと?」
 とぼける春香に、全部よ、と千早は言った。今になって思えば、今日の春香がやけに積極的だったのも、自分を元気づけるためにしてくれたことかもしれない。
 布団から頭を出して、ぼんやりと天井を見上げる。天窓を通して星が輝いている。千早はそれを見て、ふと、綺麗だな、と思った。
「あれ、オリオン座かな」春香も同じように窓の向こうを見ていたらしい。夜空の一角を指さしながら、「ほら、あの三つ並んだの」と言った。
「うん、きっとそうよ」
「綺麗だね」
「そうね」
 ぽつり、ぽつりと交わされる、短い言葉。けれどそれで充分だった。二人は同じものを見て、同じ気持ちを共有している。
 しばらくそうしているうちに、春香は先に寝入ってしまったようだった。すやすやと安らかな寝息を立てるその顔を見ながら、どうしてだろう、と千早は思った。
「春香」
 その名を呟いてみる。春香がそばにいて、そのぬくもりを感じている。それだけで、こんなにも満たされた気持ちになれるなんて。レッスンが終わった時などはあれほど深く沈んでいた気持ちが、今はもう嘘みたいに晴れやかだった。心の中にある、自分では触れることのできないスイッチ。それを春香は、いとも簡単にパチリと切り替えてしまう。
 それがちょっぴり悔しくて、千早は眠ったままの春香にそっとキスをした。


 二人が作ったチョコレートは大好評だった。もっとも、最後に登場した音無小鳥作のチョコレートケーキのインパクトが凄すぎて、他のチョコは一気にかすんでしまったけれど。なにしろそのケーキは、メートル級の巨大さと豪華さだったのだ。
「これは、なんと面妖な」
「てゆーかピヨちゃん、これってどうみてもウェディングケーキだよね」
「あらあら。セルフバレンタインというのは聞いたことがありますけれど、セルフウェディングというのは初めて見ました」
 皆が口々に、感嘆の声を洩らす。千早も思わず、すごいわね、と呟いた。ひょっとしてこれも、いつか自分用にと練習したのだろうか。
 千早もそのケーキを食べてみたが、見た目だけではなく、味も一級品だった。けれど問題は、その量だ。いくら食べ盛りが揃う765プロとはいえ、これほどの巨大なケーキを果たして食べきれるのだろうか。
「大丈夫だよぉ、昔っから言うでしょう。甘いものは別腹ってね」
 春香がニコニコしながらケーキの山に向かっていく。千早はふっと苦笑した。春香が大丈夫というなら、きっと大丈夫なんだろう。なぜだか分からないけれど、そんな気がする。
「はいっ、千早ちゃんも。あーん」 
「んっ」
 差し出されたケーキの一口を、ぱくんと咥える。柔らかな甘味が口の中でとろけていき、自然と頬が緩む。うん、こんな甘さなら毎日でもいいかもしれない、と千早は思った。だってそれは、きっと楽しい日々に違いないのだから。


 END