かみさまはいじわるだから

 きっと、罰が当たったのだと思う。
 体温計の目盛は三九度を示していた。
 これでは体も重いはずだ、と如月千早はため息をついて、ふたたび枕に頭を預けた。
 上体を起こしていたせいか、くらくらと目まいがする。もう一度大きく息を吐き出して、千早は目を閉じた。
 窓の外には、一面の銀世界が広がっている。
 ピークは過ぎたそうだが、それでも雪はまだ降り続けているようだった。東京でこれだけの積雪が観測されたのは、何十年かぶりのことだという。ニュースでは引きも切らずに、大雪でパニックに陥った首都圏の様子を伝えている。
 けれど、そんな外の混乱ぶりとは正反対に、独りきりの部屋の中は、ただひっそりとして、無音の静寂にひたひたと満たされているばかりだった。
 布団の中で、ひざを丸める。
 こうして床に臥せっていると、まるで自分だけがこの世界からぽつんと取り残されてしまったようで、千早はひどく不安めいた気持ちになってゆく自分を認識していた。暖房を入れ、布団にすっぽりとくるまっているというのに、寒気がとまらない。息苦しくて口を開けると、ふいに咳き込んでしまった。体が軋んで、目尻に涙が滲む。
 ようやく咳がおさまった時には、すっかり疲れ果ててしまっていた。
 ぐっすりと眠れれば、少しは楽になるのかもしれない。
 そう思いながらも、しかし安らかな眠りはなかなか訪れてはくれなかった。眠りに落ちそうになると、ふいに咳き込んで目が覚めてしまうのだ。
 そんなことを繰り返しながら、どれだけ経ったのだろう。
 朦朧とする意識の中で千早は、澄み切った水をたっぷりと満たした四角く透明なガラスの水槽を思った。その底にあえぐように口をぱくぱくさせながら沈んでいるいっぴきの自分。
 そういえば昔、金魚を飼っていたことがあったっけ。優と行ったお祭りの屋台でもらってきたもので、優と二人で、交代で世話をすることになっていた。けれど優はその仕事をさぼることが多くて、結局金魚にエサをやるのはいつも千早の役目だった。
 あの金魚もやがて、死んでしまった。
 ああ、自分は、なにを考えているのだろう。
 孤独には慣れている。弱気になるのは風邪のせいだ。そう自分に言い聞かせる。不安は心の弱さだ。私は、強くならなければならない。
 これは罰なのだ。弱い私への。
 神様の存在なんて、信じてはいないけれど。
 もし仮に神様と呼ぶべきものがいるのならば、それはきっととんでもない意地悪に違いない。
 まだ雪がこんなにも積もってしまう前のことだ。はらはらとまばらに舞い降りてくる雪の結晶を見た千早が思ったのは、千早と同じく765プロに所属するアイドル、天海春香のことだった。
 以前、台風の影響で、電車が止まってしまったことがあった。家へと帰ることができなくなった春香は、事務所にほど近い千早の部屋で、一晩を過ごすことになった。
 外はひどい嵐だったが、ふたりで過ごす時間は楽しかった。無機質だった部屋の中が、あの時だけはぱっと色づいたようだった。布団の中で、いろいろなことを語り合った。家族のこと、これからの夢、好きな食べ物、そして歌うということ。
 あの夜を、千早は今でも昨日のことのように覚えている。
 朝になって目が覚めて、すぐ傍に誰かがいるというのがあんなにも心やすらぐのだということを、それまで千早は知らなかった。あの時に交わしたおはようという言葉のぬくもりは、今も胸の奥にぎゅっと大事にしまいこんである。
 だから、つい願ってしまったのだ。
 どうか神様、この雪がもっと降り積もりますように、と。
 我ながら、子供じみた馬鹿げた考えだったと思う。大雪になって交通網が麻痺してしまえば、あの台風の晩のようにまた春香が私の部屋へと泊まりに来てくれるかもしれない、なんて。
 けれど、そんな千早の愚かな願いを、神様はしっかりと叶えてくれた。
 気象庁の予想を越えて急激に発達した寒波は、関東一円に記録的な大雪をもたらして、ついでのおまけに千早を風邪っぴきにしていった。
 まったく、神様というのは、なんて意地悪なんだろう。
 結局、大雪にはなったものの、春香が千早のところへとやって来ることはなかった。それどころか、ダイヤが乱れて事務所に来られるかどうかもわからないのだという。こんなことなら、はじめから素直に、春香に会いたいと願えばよかった。そうすれば、風邪をひくこともなかったろうに。
 その一方で、やはりこれは罰なのではないかとも思うのだ。ちっぽけな自分の願いのために、街中に大混乱をもたらす大雪を望んだ愚かな私への。
 結局のところ、やっぱり私は弱かったのだ。
 気持ちの弱さが、春香に会いたいと願わせてしまったのだ。自分にはもう音楽以外何もいらないのだと、そう誓ったはずだったのに。父も、母も、クラスメートも、合唱部の仲間も、事務所のみんなも、そして優も。はじめから望まなければ、失うことは怖くないから。私は、強くならなければならないのだ。独りでも生きていけるように。
 ああ――。
 だというのに、どうしてこんなにも、春香に会いたいんだろう。
 自分の頬を何かが伝い落ちてゆくのを千早は感じた。拳を固く握りしめて、目蓋を拭う。唇が小刻みに震えて、こらえ切れなくなった嗚咽がそこから洩れた。自分がどうして泣いているのか、千早自身にもわからなかった。春香に会いたいと思った、ただそれだけなのに、なぜ涙が溢れてとまらないのだろう。子供のように泣きじゃくる自分を見て、春香はなんと言うだろうか。それがたとえ罵りの言葉だったとしても、春香の声が聞きたかった。名前を呼んでほしかった。たったそれだけのことで、きっと私は救われるのだから。
 かみさま、どうか、はるかに。
 夢を見た。まだ小さかった頃の夢だ。泣いている私の頭を、誰かが撫でている。その手のひらのぬくもりが心地よくて、私は泣き止むのだけれど、そうすると手のひらは離れてしまって、それがいやで私はまた泣き出すのだ。
 カーテンの隙間から差し込む光が顔にかかって、ふと千早は目を覚ました。いつのまにか眠ってしまっていたようだった。ぼんやりとした頭で、この眩しさならば、天候も回復したのだろうかと考えた。
 体を起こそうとした時に、頭の上に何かが乗っているのに気がついた。ひんやりとしたそれは、水に濡らしたタオルだった。いつの間に用意したのだろう。発熱がひどかったのは覚えているが、昨夜はそんなものを準備する余裕もなかったはずだった。
 その時だった。
 おはよう、と声がした。一瞬、千早は自分の耳を疑った。顔をあげて、その声の主の姿を見ても、まだ信じられなかった。自分はまだ眠っていて、夢の続きを見ているのではないかと思った。
 春香がそこにいた。制服の上からエプロンをして、キッチンからこちらを覗きこんでいた。どうして、と千早は思った。頭が混乱して、何が起きているのかわからなかった。なぜ、春香がここにいるのだろう。
 呆然としている千早をよそに、春香はてきぱきと何かを作っている。いい匂いがこちらまで漂ってきて、ふいにお腹が鳴った。それは思いのほか大きな音だったらしく、春香がまたキッチンから顔を出して、もうちょっと待っててね、と笑いかけた。
 やがて、おいしそうな湯気を立てるおかゆが運ばれてきた。
 風邪を引いてしまったのでレッスンをキャンセルさせてほしい、と事務所に連絡したのを、春香は伝え聞いたのだという。それで、様子を見に千早の部屋に寄ってみることにしたのだそうだ。途中で電話をしたが連絡がつかず、とても心配したと春香は言った。呼び鈴を鳴らしても反応がなかったので、鍵は大家さんから借りてきたそうだ。そんな話を、千早は春香の作ったおかゆを食べながら聞いた。
 まともな食事をするのはひさしぶりだった。ひと口ごとに、千早は身も心も温まってゆくのを感じていた。
 全部を食べ終えると、だいぶ体に力が戻ったような気がした。熱もほぼ平熱まで下がったようで、咳の具合も落ち着いている。けれど春香は、まだ寝ていなければだめだと強く主張した。
 せっかく春香が来てくれたのに寝てばかりいるのはもったいない、と思わなくもなかったが、結局、千早は春香の言葉に従うことにした。よしよし、と春香は千早を寝かしつけながら、その頭を撫でた。
 ふと、千早は昨夜見た夢のことを思い出した。夢の中で頭を撫でてくれたあの手のひら。あれはもしかしたら、春香だったのではないだろうか。
 ねえ春香、と言いかけて、千早は口をつぐんだ。なんとなく、それを尋ねるのは野暮な気がしたのだ。春香は今日は休校で、一日千早に付き添っていてくれるのだという。それだけでも充分すぎる。
 目を閉じる。やはりまだ体力は落ちているようで、すぐに眠気がやってきた。柔らかな闇の中へと沈んでいく意識の片隅で、千早は神様のことを考えた。意地悪な神様は、この結末まで筋書き通りだったのだろうか。
 ありがとう、と千早は呟いた。その声が届いたのか、またあの手のひらがそっと頭に触れた。


  END