ハッピーカルテット

 雨が降っている。
 その音を聞いている。
 遙か空の高みから降り注ぐ雨粒が、地面を打つ音だ。
 雨の粒は、屋根の上にも落ちる。
 アスファルトの上にも落ちる。
 窓から見える街路樹の葉にも、ベランダの手すりにも、道ゆく人が手にする傘の上にも、それは等しく降り注ぎ、そして決して同じではない。
 一つ一つに、異なったリズムがある。
 水滴が、何にぶつかり、はじけたのか。
 その速度、大きさ。
 それぞれに、異なったディテールが存在している。
 どれ一つとして、同じものはない。
 こうやって、静寂の中で耳を澄ましていると、それがわかる。
 天がもたらしたリズムだ。
 天が、この地上を打楽器にして刻むビート。
 けれど、その無数のビートが混じり合い、溶け合うと、それはただ降りしきる雨という、大きな音の洪水となって、部屋の中を満たす。
 秋月律子は、ベッドの上でまどろみながら、それを聞いていた。
 雨粒が刻むビートとは別のビートが、部屋の中にあった。
 それは、律子の頭のすぐ横から、温かなぬくもりと共に伝わってくる。
 律子の傍らに、一人の男が、横になっていた。
 その男に寄り添って、律子は眠っていたのである。
 律子が聞いているのは、男の心臓が刻む鼓動であった。
 それと、穏やかな寝息。
 二人とも、裸であった。
 下着さえも身にまとっていない。
 完全な全裸である。
 腰から下を覆う毛布が、二人の肉体のラインに沿って、一つのふくらみを形作っている。
 ぶるり、と律子は身体を震わせた。
 もう桜の季節とはいえ、気温は低い。
 肌を重ねているところはともかく、さらけだしたままの上半身が、冷えてきているのだ。
 律子は手を伸ばして、その毛布を胸元まで引っ張り上げた。
 すぐに、心地よい暖かさが身体を包んだ。
 一度は覚醒した意識が、もう一度眠りの中に落ちていこうとした時に、ふと律子の肩を抱くようにしていた男の手が、動いた。
 そっと頭を撫でられた。
 見上げると、男と目があった。
 まだ眠そうではあったが、確かに男の目は開いていた。
 どうやら、毛布を引っ張った時に、男も目を覚ましたらしかった。
「おはよう。起こしちゃったみたいね」
「ああ、おはよう」
 言いながら、男が大きなあくびをした。
 それを見て、律子はくすっと笑った。
「まだ眠いみたいね。もうちょっと寝てた方がいいんじゃない?」
「いや、大丈夫だよ」
「疲れてるのかも。このところ、ハードスケジュールだったから」
 765プロきっての敏腕プロデューサー。
 それが、男の肩書きだった。
 プロデューサーとしての経験は、律子の方が長い。
 男は、律子の後輩にあたる。
 律子がアイドル候補生をやめ、プロデューサーとして活動をするようになってから、一年後に、男は765プロに入社してきたのである。
 しかし、今や、プロデューサーとしての実績は、男のほうがずっと上であった。
 男がプロデュースしたユニットは、昨年のアイドルアカデミーで、全部門制覇という偉業を成し遂げたのである。
 それはもはや、アイドルというジャンルの枠にとどまらず、日本の芸能界史上においても、特筆すべき出来事であった。
 以来、男はほとんど休みもなく、忙しい日々を過ごしている。
 ほとんど分刻みのスケジュールだ。
 だが、男がそれを辛いと言ったのを、律子は聞いたことがない。
 むしろ逆であった。
 過去の栄光に甘えることなく、さらなる高みを目指したい――
 それが、男の口癖であった。
 惹かれた。
 その頃には、律子もまた、自らのプロデュース業の傍ら、男の仕事を手伝うようになっていた。
 初めは、その仕事ぶりに惹かれているのだと思った。
 男の、確かな手腕。
 それを信頼しているのだと。
 けれど、それだけではないと気づいたのは、いつのことだっただろう。
 仕事上のパートナーシップは、いつしか、恋愛感情を伴ったものへと変化していた。
 そして、それは、男の方も同じだったらしい。
 二人は結ばれ、こうしてたまの休みを、共に過ごしている。
 事務所の皆には、まだ、二人の関係については、伏せたままにしている。
 公私の区別をきちんとしておくためだ。
 もっとも、社長にだけは、正直に話してある。
 その社長は、当初、あまりいい顔をしなかった。
 当然だ。
 恋愛などと、そのような浮ついたものを、会社に持ち込むべきではない。
 それは、律子も分かっている。
 怒られた、というほとではないが、苦言を呈された。
 だが、男は、真っ向から社長に反論した。
 自分たちの関係は、決して、浮ついたものではないと。
 結婚も考えています――
 きっぱりと、社長にそう告げた男の横顔が、今でも律子の目に焼き付いている。
 ほんの少し前、同じ社長室で、新しい後輩だと紹介された時とは、まるで別人のように頼もしく、眩しかった。
「どうしたんだよ、ニヤニヤして」
「別に。何でもないわよ」
 その時のことを思い出しているうちに、自然と表情が緩んでいたらしい。
 今では、社長も二人のことを認めてくれている。それどころか、仲人は自分がしよう、とまで言い出したほどだ。
「それよりも。雨、降っちゃったわね」
「そうだな」
 降りしきる雨の音は、さらに激しさを増していた。
「こりゃあ、ちょっと止みそうにないな」
「そうね」
「どうする?」
 男が訊いた。
 予定では、今日は、二人で近くの公園へ花見に行くことになっていたのだ。
 雨霞の中、水滴に身を濡らす桜の花を思った。
 寒々とした、鈍色の空の下で、天からの打擲に身を震わせ、花びらを泥の中へ散らしてゆく桜たち。
 それは、思い描いていた花見とは、だいぶ違う。
「うーん、これは、中止かしらね」
「ま、そうだな」
 男が、残念そうに呟く。
「律子の弁当、楽しみだったんだが」
「あら。弁当なら、別に花見に行かなくたって、作ってあげるわよ」
「作ってどうするんだよ。部屋の中で食うのか?」
「そうよ。外で食べなきゃいけない、なんて決まりはないでしょう?」
「まあ、確かに」
「ふふ。そんなに楽しみにしてくれてたんなら、腕によりをかけて作らないとね」
 律子は身体を起こした。
 普段は、アップにしている髪を、今は下ろしている。
 それが、ふわりと舞って、肩に落ちた。
 ベッドサイドのテーブルに置いてあったメガネを、顔にかける。
 ベッドから降りようとした時、男が、律子の後ろから、その身体を抱き寄せた。
 抱きすくめられた。
 首筋にキスをされた。
「んっ!」
 律子は、くすぐったそうに、肩をすくめた。
 男の手が、律子の豊満な乳房を包むように持ち上げ、その柔らかさを楽しむようにふにふにと指を動かした。
 指先が、先端の突起に触れた。
 押し込むように、小さな円を描いて、男は指の腹で律子の乳首を弄んだ。
「はっ……ぁ」
 馴染んだ動きだった。
 律子の肉体から、どうすれば快楽を引き出せるのか。
 それを知り尽くした動きだ。
 片手で乳首を転がしながら、もう片方の手が、滑るように両脚の付け根に潜り込んだ。
 さわさわと、陰毛の茂みに、指をくぐらせる。
 律子がもどかしそうに腰をくねらせると、男の手はさらに下に滑り、柔肉の襞の間へとたどり着いた。
 小刻みに震わせた。
「ちょっと、朝ご飯の用意、しなきゃ……」
 途切れ途切れに、律子が言う。
 その声に、艶が混じっている。
 身体は既に、男の愛撫に、反応しはじめている。
 両の乳首が、自分でもそれと分かるほどに、硬く充血し尖っている。男の指がそれをこねまわすたびに、甘やかな痺れが、水溜まりの中のさざ波のように、肉体の中に反響する。
「いいだろ、今日はもう出かけないんだし。このままのんびりしても」
「もう……、昨夜だって、あんなにしたじゃない」
「昨日は昨日、今日は今日だよ」
 そう言って、男は、律子の唇をふさいだ。
「んっ……ちゅ、ちゅくっ」
 律子は抵抗しなかった。
 互いの唇と舌が、まるで意思を持った生物のようにうねり、絡み合う。
「くちゅっ、ちゅぷ、くちゅる……んむ、ぷは……ぁ」
 混ざり合った唾液が、二人の唇の間を、透明な糸となって結んだ。
 秘部を探る男の指が、ぬめりを帯び始めていた。
 徐々に動きが大胆になり、指先が、浅く肉の中に潜り込んだ。
「ひゃっ……んく!」
 ぞくん、
 と身体を震わせて、律子が喘ぎ声を洩らす。
「お、いい声」
「ば、馬鹿ぁっ……知らない、もうっ」
 恥ずかしそうに身悶えた律子の背中に、硬いものが触れている。
 熱い温度を持ったものだ。
 その硬度を確かめるように、律子は腰をくねらせた。
「はぁ……ん、責任、取ってもらうからね」
 二人は体を入れ替えて、向かい合った。
 律子が、その細い指先をそっと添えて、マイクを握るように、男のものを手に取った。
 顔を寄せる。
 ぱんぱんに充血し膨らんだそれに、まず息が触れ、ついで、唇が触れた。
「うお……」
 男が、食い縛った歯の間から、小さく呻き声を洩らした。
「んふっ……んん、ちゅ……れる」
 キスをするように、何度も先端に口づけ、ちろちろと舌を這わせる。
「はむぅっ……んんむ、ちゅぱっ……ちゅぱ、ちゅくっ……くちゅ」
 吸い上げるように、頬張った。
 今は下ろしている髪を、手でかき上げ、律子は男のものを口に含み、愛おしそうに唇で愛撫した。
 的確に、律子の舌が、男の感じる部分をなぞってゆく。
 男が、思わず腰を浮かせる。
「すげ……気持ちいい」
「んんっ、ちゅぱ、ちゅぱっ……んんく」
 くぐもった吐息の中に、律子がそれをしゃぶる音が混じる。
 男の手が、律子の頭を撫でた。
 たっぷりと、男のそれに唾液を絡ませて、律子の唇が離れた。
 熱に浮かされたように潤んだ瞳が、互いを見つめ合う。
 それで充分だった。
 男が、律子の身体をそっと押し倒した。
 両脚の間に、体を割り込ませ、唾液に濡れた自分自身を、熱いうるみを溢れさせる律子の肉のほころびに押し当てた。
 押し込んだ。
「んくっ……はぁぁあっ……ん!」
 入り込んでくるそれに押し出されるように、律子の濡れた唇から、甘い官能の吐息が洩れた。
 その唇を、男の唇がふさいだ。
 男の背に、律子が腕を回す。
 ぎゅっと抱きついた。
 お互いの体を、固く結び合いながら、男の腰が、ゆっくりと動いた。
「んんむ、んふぅっ、ちゅ、ちゅく」
 夢中で口内をまさぐる。
 男のものが、律子の内側をなぞり、擦りあげてゆく。
「んんっ……はぁぁんっ、んぁっ……ぁ!」
 たまらず、律子が声をあげる。
 激しく降る雨の音。
 軋むベッド。
 呼吸。
 心臓の鼓動。
 濡れた肌。
 汗。
 肌と肌が、打ち合わされる、音。
 むぅっとした、男女の交わり独特の匂い。
 部屋の中を満たしたそれらに包まれながら、二人とも、恥も外聞もなく、ただの獣のように、相手の体を求め合った。
 足りなかった。
 どれだけ溶け合っても、足りない。
 この肉体が、この吐息が、この心が、どんなに重なり合っても、足りない。
 だから、重なり合う。
 重なり合っても足りないのに、重なり合う。
 まるで、それだけが、相手と自分を結ぶ、ただ一つの方法だというように。
「はぁぁあんっ! あっ……あぁあっ!」
 遠くから響いてくる地鳴りのように、律子の中に、絶頂の予感が迫ってきた。
 まだだ。
 まだ。
 まだ。
 もっと。
 高みへ。
 きつく、体を抱きしめ合う。
 ああ。
 律子は、ぶるり、と身体を震わせた。
 来る。
「律子っ、りつこ――!」
 男が、律子の名を叫んだ。
 律子も、男の名を叫んだ。
「あぁぁああっ! ふぁぁあああんぅ!」
 律子の身体が跳ねた。
 肉体の中を、巨大な何かが貫いていったようだった。
 それは、背骨に沿って駆け上がり、頭よりもずっと上のどこかで、爆発するように弾け飛んだ。
 視界が明滅し、意識が白く灼熱した。
 同時に、男も果てていた。
 熱い温度を持ったものが、自分の中の奥深くで、どくどくと吐き出されていくのを、律子は感じていた。



 結局、朝食は食べられなかった。
 そのまま、二回、三回としているうちに、気がつくと、もうすっかり正午近くになっていたのである。
 寝起きに言っていたとおり、昼食は、弁当を作って、それを食べることになった。
 といっても、作ってすぐ食べるのだから、弁当というよりは、お重を食器にした、普通の食事といったほうが正しいかもしれない。
 小さな座卓を、二人で囲んで、お重をつつく。
「なんだか、季節外れのおせちみたいね」
「そうだな」
 さすがに、お腹が空いていた。
 箸が進む。
 それは、男も同じであった。
 男の食べっぷりを見ながら、律子は、なんだか自分がひどく穏やかな気持ちになっていることに気がついた。
「ちょっと、ご飯粒ついてるわよ」
「え、どこ?」
「ここ」
 律子が、男の頬についていた米粒をつまんで、自分の口に運んだ。
「あ……ああ、ありがとう」
 なんとなく気恥ずかしかったのか、男はばつが悪そうに頭をかいた。
 それを誤魔化すように、窓の外に目を向ける。
 律子も、つられて、そちらを見た。
 雨が降っている。
 その音が聞こえている。
 激しい雨音は、まだ当分やみそうになかった。
「花見はまた来年だな」
 男が、ぽつりと言った。
「そうね」
「でも、もしかしたら、その頃には二人じゃなくて、三人になってるかもな」
「はあ? それってどういう――」
 言いかけて、律子は、すぐにその意味を理解した。
 今度は、律子が、かぁっと顔を赤くする番だった。
「ちょ、ちょっと、何言ってんのよ、もう」
 しかし、その一方で律子も、ずっと前から気がついていた。
 いや、気づいているというよりは、暗黙のうちに了解し、そして受け入れてきたというほうが、正確かもしれない。
 二人の交わりが、以前ほど、避妊に気を使わなくなってきている。
 今朝もそうだ。
 昨夜も。
 いつからだろうか。
 結婚――
 二人が、それを具体的なものとして考えるようになった頃と、一致するかもしれない。
 先日のオフには、二人で、律子の実家に、挨拶に行ってきた。
 両家顔合わせの日取りや、結納の話などが進んでいくにつれ、初めは、二人だけの関係性だったものが、自分たちの手から離れて、もっと大きな流れになっていくのを、律子は感じていた。
 なるほど、結婚とは、そういうものなのだ。
 勢いのついたはずみ車のようだ。
 もう止められない。
 不安が全くない、といえば嘘になる。
 けれど。
 律子は、男の顔を見つめた。
 この人となら。
 その不安もきっと、乗り越えられる。
「うん? どうした、律子」
 視線に気がついたのか、男が、箸を止めて、顔をあげる。
「ううん、別に」
「なんだ、まだ俺の顔に、何かついてるのかと思った」
「もう取れたわよ。それよりも、子供だけどさ、いずれは、カルテットが組めるくらい欲しいって言ったら、どうする?」
「ちょ、そんなにたくさん!?」
「あら、ダメかしら」
「いや、ダメじゃないけど」
「ふふ。しっかりプロデュースしてくださいね、プロデューサー殿」