ハルカ、ソラヘ


 ストローの袋をくしゃっとして、コップからジュースを一滴その上に、ぽとりと垂らして、袋が動く。それがまるで生き物のように見えて、結局のところ、生物も無生物も、たいした違いなんかありはしない。だってこのわたしという天海春香も、今まさにくしゃっとしたストローの袋と同じく、お風呂の中で、お湯につかって、吐く息も白くなるこの寒さにくしゃっとなっていた体が、うねうねと動きながら伸びてゆく。
 ゆらゆらと揺れる水面を眺めながら。
 ひどく長い一日の終わり。疲労というのはきっと水溶性で、けれども冷たい水にはあんまり溶けない。だからこうしてお湯につけるのだ、温度が高いと溶けやすいのだと子供の頃に理科の授業で習ったのを思い出して、そうして疲れが溶け出したお湯の、この水素と酸素の化合物。そこには先に入ったそのひとの、疲れや他の色んなものが、きっとたくさん溶け込んでいる。
 アイボリーの壁面に、シャンプーのボトルがふたつ並んでいる。わたしと彼女は違うものを使っていて、一緒に暮らすのなら、シャンプーだって同じものを使えばいいのに、それだけは譲れないのだと、変に意地を張り合った結果の産物。でもそれは遠い過去の話で、今はもうどうでもよくなったのだと思う、減っていくのは片方だけで、意味のない並列。
 疲れはきっと無色で無臭で、誰にも見えない、それは都合がよい。彼女が、如月千早が、どんなにこのお湯に彼女の疲れ切った体を浸していても、わたしはそれを見ないで過ごす。
 湯気の中にぼんやりと残り香が、彼女の残した匂いがして、汗と唾液と涙と尿と、それからもっと色々なものが溶け込んでいる。そうして石けんで塗りつぶして、だからそこに残っているのは、彼女の悩みも苦労もなんにもない、単なる石けんの匂いでしかないのだから。
 ちゃぷちゃぷと揺れる水音を、ドアの向こうの、廊下のあっちで、彼女は聞いている、届くはずもないのに。眠ったふりをしながら、じっと息をひそめて、わたしの立てる心臓の鼓動の、どくんというその音だって聞き洩らしはしまいと、彼女は待つ。わたしを、わたしの心臓が、彼女の心臓のそのすぐそばに、ゆるゆると近づいてゆくのを。
 わたしは、わたしの疲れた体から染み出すその疲労を、あらかたお湯の中に溶かし込んで、念入りに体を洗う。外の世界の汚れた何もかもが、もうこれ以上はどんなにも彼女を傷つけることのないように、儀式めいた、そうこれは儀式なのだ、わたしが、わたしと彼女だけの、窓のない部屋の中へと入り込んで、世界と切り離されるための。
 如月千早の世界には、もう、わたししかいない。
 ゆらゆらと揺れる水面を眺めながら、ふと思う。どこで、どうして、くるりとひっくり返ってしまったのだろう? 誰も、誰にも、彼女に触れて、彼女を汚して、彼女を傷つけさせやしないと決めたはずなのに、わたしの、わたしだけが、彼女に触れ、彼女を汚し、彼女を傷つける。何が引き金だったのかは、もう思い出せない。記憶はきっと水溶性で、お湯には溶けやすい。ぽん、と栓が抜けたのなら、ざ、と流れてそれまでだ。
 ふわふわのバスタオルに包まれて、濡れた髪にドライヤーの温風を浴びせながら、わたしはしっかりと乾いてゆく。儀式が終わり、わたしは彼女の世界に所属してゆく。わたしの世界に閉じ込めた、如月千早という世界の中に。
 歌をうたえなくなったカナリアを、そっと大事にカゴの中に仕舞い込んで、たたんで、ちいさく、ポケットに入るように、折りたたんで、握り締めて、ぎゅっと、だってそれは大事なものだから。むすんで、ひらいて、空に向かってかかげてみたら、それはもう飛べなくなっていた。
 溶け合って眠る。彼女は今日も、綺麗です。


  了