
1/
「――という感じなんですよ。イリュー様からも一言いってやってくださいませんか?」
アリスの言葉を目を閉じて聞いていたイリューは、ふむ、と呟いて瞼を上げた。
二人がいるのは、グラストヘイムの片隅にある、イリューの私室である。
小ぶりな木製のラウンドテーブルを挟んで、向かい合って座っている。テーブルの上には、紅茶が注がれたカップが二つ並んでいるが、どちらもまだ口をつけてはいないようであった。
テーブルの上に身を乗り出すようにして熱弁を振るうアリスとは対照的に、イリューは落ち着き払った様子でカップを手に取り、芳醇な香りを楽しむようにゆったりと口元に運んだ。満足する味だったのだろう、イリューの顔に柔らかな微笑が浮かぶ。
「もう、ちゃんと聞いてるんですか?」
「そんなに声を張らずとも、聞こえておるわ」
イリューは静かにカップを置き、
「――にしても、アリス。お前は本当に世話焼きが好きじゃのう」
ふっと苦笑してアリスを見つめた。
アリスがイリューにしていた話というのは、姉である2Fアリスのブラッディナイトに対する態度についてであった。
「姉さんはブラッディナイト様に対して気安く接しすぎです」
というのが、アリスの主張であった。
既に、姉に対して何度も態度を改めるよう言ったらしいのだが、
「血騎士様は生真面目すぎるから、誰かが解してあげないといけないのよ。それに私、血騎士様が本当にお嫌だったら、しないから。本当よ? ――私、命かけてますもの」
2Fアリスはそう笑顔で答えるばかりで、一向に改善の気配がないのだという。
それで、全く聞く耳を満たない姉に業を煮やしたアリスが、イリューの元へとやってきたというわけである。
だが、ヒートアップするアリスとは反対に、イリューはこの問題にほとんど興味がないようであった。
「――本人がそう言っているのならば、良いではないか。わざわざ外野が口を挟むことでもなかろう?」
そう言って、イリューは涼しげな顔で我関せずを貫くばかりである。
「ですが、それは姉さんが自分で言ってるだけで、ブラッディナイト様が実際にどう思っているかは別ではありませんか」
「なに、ブラッディナイトのことならば、あやつが一番よく知っておるよ。この城の誰よりも、な」
「そんな……」
アリスの脳裏に、あっけらかんとした姉の笑顔が思い浮かぶ。
どう考えても、あの姉がそれほどまでにブラッディナイトのことを考えているとは思えない。
アリスはぶんぶんと首を振って、
「私、信じられませんっ!」
断固とした口調でそう言った。
「ふむ、どうしたものかのう――」
イリューはやれやれといった口調で呟き、
「そういえば、そなたは以前のブラッディナイトを知らぬのであったな」
「以前の、ですか?」
「そうじゃ。おぬしの姉と出会う前の、な」
「は、はい。その当時、私はまだ生まれてなかったですし――」
「ならば、一つ昔話でもしてやるかのう」
イリューは遠くを見つめるように目を細め、静かに語りだした。
2/
「ブラッディナイト様! 北西に侵入者が!」
「分かった。今ゆく」
哨戒にあたっていた動く鎧――レイドリックの報告を受けて、ブラッディナイトは腰を上げた。
その圧倒的な巨体を、報告に来たレイドリックは思わず感嘆さえ含んで見上げた。
巨大な岩が動き出したかのようであった。
レイドリックとて小柄なわけではない。並の人間からすれば、大男と言ってもよいだろう。
だが、この男と並ぶと、レイドリックさえ子供同然にしか見えない。
それほどに、ブラッディナイトの肉体は、他を圧倒する大きさと、存在感を持っていた。血涙を流し慟哭するオウガを象った禍々しい鎧と盾は、同朋たるレイドリックたちの背筋さえも凍らせる。
「何人だ」
短く、錆を含んだような重い声が問う。
「かなりの数です。十人以上はいるかと――」
「俺がやる。お前らは退がっていろ」
抗うことを許さぬ圧力を込めた声に、居並ぶレイドリックたちはただ頷くことしかできなかった。いや、内心はほっと胸を撫で下ろしていたのかもしれない。侵入者たちとの戦いを免れたことではなく、この男と共に戦うことを免れたことに。
立ち尽くしたまま見送るレイドリックたちの視線を広い背中に受けながら、ブラッディナイトは一人、グラストヘイム城内に入り込んだ冒険者たちの元へと向かった。
刻む歩みは無造作に、巨体が石床を踏みしめる音が古ぼけた城の壁に木霊する。気配を隠そうとさえしないのは、己が技量への自信からではなかった。
敢えて自らの存在を知らせることで、冒険者たちが退いてくれるのならばと、ブラッディナイトはそう思っていた。
しかし、その期待は儚く霧散した。
近づく地響きにも似た足音に、侵入者たちは既に戦いの姿勢を整えていた。
それを無言で睨みつけ、剣を構える。
ブラッディナイトの肉体と同じく、巨大な剣であった。
長く、太い。
幅は一尺半、刃渡りは一尋以上はあるだろうか。その上で人ひとりが寝そべることさえできそうな巨大さであった。
それをブラッディナイトは軽々と片手で持ち上げ、切っ先を真っ直ぐに侵入者たちに向けた。
「問う。生きてここから帰るか、死ぬか」
返答はなかった。
いや、返答というならば、無言の斬撃こそが侵入者たちの返答であった。
ふっと、ブラッディナイトの顔が曇った。だがそれは目深に被った兜に隠れ、誰の目にもとまることはなかった。
ブラッディナイトの左手が剣の柄に添えられ、巨大な白刃が風を捲いて振るわれた。
ブラッディナイトに斬りかかろうとした先頭の騎士が、ふとバランスを崩したように前のめりに倒れこんだ。
勢いよく地面に鼻先を打ちつけた男の顔に、当惑の表情がよぎった。仮にもグラストヘイムに乗り込もうと思うだけの実力を持った騎士である。躓くような障害物もないのに、どうして自分は転んだのか。
その疑問の答えを知る前に、男の頭部を、無造作に踏み出したブラッディナイトの右足が踏み潰した。
脳という最も重要な器官を守るための強固な頭蓋は、しかし巨体の重量の前に無残に砕け散った。
ぐじゅ、という厭な音を残して、男の頭部は平面に同化した。
男は最期まで知ることがなかった。自分が何かに躓いて転んだのではなく、そもそも踏み出したはずの脚が既に己の肉体とは別離していたことを。
「貴様ッ!」
残った侵入者たちが、一斉にブラッディナイトに襲い掛かった。
ブラッディナイトの巨体が、信じられぬ速度で突進した。
殺戮が始まった。
それはもはや、戦いとは呼べぬものであった。
一方的に振るわれるだけの暴力。破壊。
ブラッディナイトの手にした大剣が唸りをあげるたび、幾人もの冒険者たちがまるで紙細工のように千切れ飛ぶ。
巨体の突進を阻むものは何一つない。
それも道理。荒れ狂う暴風を止めることができる人間など、いようはずもない。
断末魔の叫びさえ残さず、居並ぶ人間たちは物言わぬ肉の塊へと変貌してゆく。
鮮血が壊れた噴水のように宙を舞い、ブラッディナイトの上に降り注いでゆく。
血煙の中を、狂った野獣が駆け回っているかのようであった。
「おのれ――!」
後方の魔術師が、杖を掲げ素早く詠唱を紡ぐ。
だが、一瞬の後に歴戦の魔術師は思い知ることになる。
人域を超えた魔剣士は、魔術においても人間を遥かに凌駕していることを。
魔術師が詠唱を紡ぎ終える寸前、その目がかっと見開かれた。
その視界を、迫り来る巨大な隕石が埋め尽くしていた。
メテオストーム――
灼熱の隕石を召喚し対象を破壊し尽くす、火を操る系統の魔術の中で最高クラスの術である。
――これを、あの血塗れの騎士が放ったというのか!?
驚愕に目を見開いたまま、魔術師の肉体は業火の中に霧散した。
爆風がおさまった時、もはや動くものは何一つ存在していなかった。
無謀なる戦いに挑んだ人間たちはもちろん、それを見守るレイドリックたちもまた、ブラッディナイトの凄まじい戦いぶりに身を凍らせていた。
痛いほどの沈黙が、その場を支配していた。
言葉を発するものはいない。
だが言葉にせずとも、その眼差しがレイドリックたちの心中を如実に物語っていた。
怯えをはっきりと含んだレイドリックたちの視線をその身に受けながら、ブラッディナイトは無言で立ち尽くしていた。
ブラッディナイトが、ゆっくりと顔をあげた。
その視線が向けられた途端、そそくさとレイドリックたちは目を逸らした。歩み寄ろうとするものはなく、声をかけるものすらいなかった。
ただ一人、新たにこの城の住人となった少女を除いては。
「――あの、お怪我はないですか?」
下方から聞こえた耳慣れぬ声に、ブラッディナイトは訝しげに声の主を見た。
メイド服に身を包んだ少女が、ブラッディナイトを見上げていた。背丈は、ブラッディナイトの腰くらいしかない。とはいえ、決して女が幼いわけではなかった。まだ顔にあどけなさは残るものの、体つきは成人した女性のそれである。だがブラッディナイトの肉体が大きすぎるため、子供のように見えてしまうのだ。
「お前は?」
「あ……、私はその、今日からみなさんのお世話をさせていただくことになった、アリスといいます」
「俺に世話など必要ない」
冷たい拒絶を含んだ声で、ブラッディナイトが言った。
しかし、少女は引き下がらなかった。
「でも、血が――」
言われて、ブラッディナイトは己の体を見た。
確かに、纏った鎧に、大量の赤黒い血が絡み付いている。もはや地の色が何であったのか分からぬほどであった。
「返り血だ。俺の血ではない」
「じゃあ、綺麗にしないと」
「いらぬ」
先ほどよりも強い口調で、ブラッディナイトが拒絶を告げた。この騎士を知るものならば、それだけで背筋を凍らせるような声であった。
「――分かりました」
アリスは目を伏せ、消え入りそうな声でそう答えた。
重い足音を残して遠ざかってゆくブラッディナイトの背中を、アリスは無言のまま見送っていた。
3/
ブラッディナイトが、深々と頭を下げていた。
床に片膝をつき、背を丸め、握った両拳を地面に押し当てている。
拳と拳の間は、肩幅程度である。
顔を伏せ、じっと眼前の地面だけを見つめている。
その姿勢のまま、ぴくりとも動かない。
まるで巨大な巌がそこに鎮座しているようであった。
床に、朱色の絨毯が敷き詰められている。柔らかな、毛足の長い絨毯であった。他の部屋のように薄汚れ、ぼろぼろになったものではない。
先の大戦で半ば廃墟と化したグラストヘイム城は、いまだ大規模な修繕は行われていない。多くの場所は、大戦の傷跡を生々しく残したままとなっている。
だが、この部屋は違っていた。
見事にバランスの取れた調度品の数々には、思わずため息さえ洩らしてしまいそうになる。隅々まで細やかな気配りが行き届いた室内には、僅かな埃さえも存在を許されていないかのようであった。
この部屋の主が特別な存在であることが、その様子からも見て取れる。
「お呼びでございますか、イリュー様」
顔を伏せたまま、ブラッディナイトが口を開いた。
「うむ。――そう畏まるな、顔を上げよ」
涼やかな鈴の音のような少女の声が、跪くブラッディナイトにそう告げた。
「はい」
ブラッディナイトが顔を上げた。
ブラッディナイトが跪いている場所よりも数段高い床の椅子に、一人の少女が脚を組んで泰然と腰掛けていた。
決して派手過ぎることなく、しかし見事な装飾を施された椅子であった。流れるような曲線を主体にした肘掛と脚の造形が、作り手の確かな技量を物語っている。
だが、そこに座している少女は、その椅子以上に気品ある美しさを備えていた。
グラストヘイムの主であるダークロードの娘、イリューである。
見た目こそ可憐な少女であるが、その佇まいには上に立つものに特有の気品と優雅さが滲み出ている。
人間の聖職者が纏う法衣に似た、濃紺の衣を纏っている。長く腰まで伸ばした艶やかな黒髪が、闇に映えていた。幼さの残る顔つきに、切れ長の目が凛とした印象を与えている。
本来ならば、段上にいるイリューをブラッディナイトが見上げる形になるはずであるが、ブラッディナイトの体があまりに大きいため、二人の視線は同じくらいの高さにある。
「おぬしの活躍は聞いておる。グラストヘイムの守護者たる任、見事に果たしてくれているそうじゃな。我が父ダークロードに代わって礼を言わせてもらうぞ」
「は、身に余る光栄でございます」
ブラッディナイトが深々と頭を下げた。
「父上がそなたに騎士団を任せたのは、正しい選択じゃった。これからも、グラストヘイムの守護者として存分にその腕を振るってくれ」
「かたじけのうございます。不肖ブラッディナイト、これからも我が身を粉にしてグラストヘイムのために尽くしたいと存じます」
「うむ。――じゃがな、良くない話も耳にしておる」
と、そこでイリューは一度言葉を切り、視線を落とした。その先をどう言ったものか思案しているようであった。
「――――」
ブラッディナイトは、じっと黙したままイリューの言葉を待っている。
役職上は、ブラッディナイトの上官はダークロードただ一人である。かつてダークロードと共に戦った四天王たちも、今では一線を退き、グラストヘイムの防衛はブラッディナイトがその全権を任されている。
しかし、ダークロードの娘であるイリューの立場は、そういった役職の序列を超えたところにあった。実質的には、ダークロードに次ぐ地位といってもいい。
ブラッディナイトは、殊更にそういった礼儀を重んじる男であった。
ただ膝をつき、イリューの言葉を待つ。顔をあげ拝顔することさえも、許しを得るまでは決してしようとしない。
その態度には、愚直とさえ言える真摯さがあった。
イリューも、そんなブラッディナイトの気質はよく知っている。だからこそ、こうして苦言を呈さねばならぬことに、心を痛めているのだろう。
「戦い振りは素晴らしいのじゃが、その他が、な――」
イリューが、重く口を開いた。
「それは――」
どういう意味ですか、とブラッディナイトは問わなかった。
イリューの言葉の意味を、他の誰よりも、ブラッディナイト自身がよく理解していたからである。
ブラッディナイトに向けられる、部下たちのあの眼差し。
彼らの眼にあるのは、信頼でも、尊敬でもない。
恐怖である。
狂戦士――
それが、彼らのブラッディナイトに対する思いであった。
部下の中に、自分と共に戦うのをいやがる者がいることも、ブラッディナイトは知っていた。あまりに次元の違うブラッディナイトの戦い振りに、同じ戦場に立つことさえ恐れているのである。
だから、近頃は、一人で戦うことが多い。
それが更に孤立を深めることになるということも、分かっている。
しかし、どうすれば良いのか。
その答えを、ブラッディナイトは持ち合わせていなかった。
「もう少し、他の者と打ち解けても良いのではないか?」
「は――」
「おぬしのことじゃ、全てを一人で背負おうとしておるのじゃろう。じゃがな、それではいつか背負ったものの重さに耐え切れぬ時が来る」
「――――」
「おぬしは一人ではない。数多くの仲間がおるのじゃ。もっと、そやつらを信頼してみてはどうじゃ」
「それは……、そうかもしれませんが」
と、ブラッディナイトが歯切れ悪く答えた。
「おぬしの、その鎧じゃがな――」
ブラッディナイトの纏った鎧を見つめながら、イリューが言った。
幾多の戦いを潜り抜け、夥しい返り血を浴びつづけてきたその鎧は、もはや元の色が何であったかさえ分からぬほどに赤黒く染まっていた。まさに、血塗れの騎士の名に相応しいほどに。
「久しく脱いでおらぬじゃろう。たまには、本来の自分に戻ってみるのも良いのではないか?」
「それは、例えイリュー様の命とはいえ、できません」
さっきよりもきっぱりと、ブラッディナイトが答えた。
「私がこの城の守護者である限り、この姿こそが私のあるべき姿です」
「――良いのか? それで」
イリューの問いに、
「自分は、戦うことしかできません」
それだけを言って、ブラッディナイトは沈黙した。
鋼の沈黙であった。
この男がこうなってしまっては、もう何を言っても無駄だということを、イリューは理解していた。
「そうか。ならばこれ以上は言うまい。下がってよいぞ」
「は――」
ブラッディナイトがイリューの前を辞してから、イリューは一人、閉ざされた扉に向かって、
「全く、不器用な男よな――」
哀れむように、そう呟いた。
その声は、誰の耳にも届くことなく、静かに室内に溶けて消えた。
4/
まただ。
また、あの視線が俺を取り囲んでいる。
怯えを含んだ、異物を見るような眼差しだ。
戦場のただ中に立ち尽くし、遠巻きに自分を見つめるレイドリックたちの中心で、ブラッディナイトはそう思った。
言いようのない寂寥感が、ブラッディナイトの胸に去来していた。
果てしない砂漠の中心に、ぽつんと独りだけ取り残されたかのようであった。
風が、吹いていた。
現実の風ではない。
ブラッディナイトの心の中にだけ吹く風だ。
その風を感じながら、ブラッディナイトは一人、己の中に広がる荒涼とした砂漠を見つめていた。
足元には、無残に打ち捨てられた冒険者たちの屍体が転がっている。
この屍体たちもそうだ。
死の瞬間、誰もが俺を恐れ、憎み、呪う。
死してもなお、深い恨みを込めた眼差しが、俺を見上げている。
それが厭だとは言わない。
むしろ、それを真っ直ぐに受け止めることが、己に課せられた宿業なのだと、ブラッディナイトは思っている。
どのような理由があれ、この手で人を殺めたのだ。その罪は、背負わねばならない。
元々、ブラッディナイトの方から仕掛けた戦いではない。
彼らは、グラストヘイムに対する侵略者である。ブラッディナイトはグラストヘイムの守護者として、彼らを迎え討っただけである。
だがそれで、己の罪が赦されるわけではない。
彼らにも、彼らなりの信念や、譲れない理由があって、ここにやってきたのだ。
帰りを待つ家族や、愛する恋人もいただろう。
それを、俺は殺した。
彼らはもう、笑うことも、涙を流すこともない。誰かと喜びを分かち合うことも、苦労を共にすることもない。
ただ暗く冷たい死のみが、彼らを静かに包んでいる。
その死を与えたのは、俺だ。だから、彼らは俺を呪う資格がある。そして俺は、それを一生背負い続けていかなければならない。
それが、戦いに生きる者に課せられた業だ。
戦場に立つものが、その背に負わねばならない十字架だ。
俺が戦士として戦い続ける限り、その十字架は重さを増し続けてゆくだろう。
それでも構わない、とブラッディナイトは思った。
その覚悟は、とうの昔にできているのだ。その覚悟がなくて、この生き方を選んだりはしていない。
恨むなら、存分に恨むがいい。
憎むなら、存分に憎むがいい。
恐れられても構わない。蔑まれても構いはしない。
俺は、剣だ。
グラストヘイムを脅かす敵を切り捨てるための、一振りの剣なのだ。
この身を血に濡らし、修羅の道をゆく覚悟はできている。
それでいい。
それでいいと。
そう、思っていた。
なのに――
この風は、何なのか。
胸の中を吹き荒ぶこの乾いた風は、一体何だというのか。
と、その時、
「あの……」
ふとかけられた声に、ブラッディナイトは振り向いた。
そこに、一人の少女が、ブラッディナイトを見上げて立っていた。
腰まで伸ばしたクセのない長髪を、ヘアバンドでとめている。凄惨な戦場にまるで似つかわしくない、ふわふわのメイド服姿。
しばらく前からグラストヘイム騎士団に加わった、アリスである。
「――またお前か」
やや呆れたように、ブラッディナイトが言った。
言ってから、ブラッディナイトは自分の口調に少し意外そうな顔を浮かべた。
言葉の中にあからさまに感情が混じることなど、この血塗れの騎士には珍しいことであった。
「はい、私です」
何が嬉しいのか、にっこりとアリスが笑顔を浮かべる。
「世話などいらぬと言っただろう。戦いが終わったとて、またいつ次の敵が来るか分からん。安全なところに隠れていろ」
感情を殺し、事務的な口調に戻ったブラッディナイトが、アリスにそう告げた。
「そういうわけにもいきません。私だって、騎士団の一員なんですから。さ、お体をお拭きいたします。どうぞこちらへ」
そう言って、アリスはブラッディナイトの腕を取り、ぐいぐいと引っ張っていく。
「お、おい――」
強引に振りほどこうかとも思ったが、結局、ブラッディナイトはアリスに従うことにした。どれだけ拒否しても無駄だということは、もう骨身に染みて知っている。
城の片隅で、ブラッディナイトは腰を下ろした。
胡坐をかき、背を丸めている。
それでも、座したブラッディナイトのほうが、立ったままのアリスよりも大きく見える。
アリスは、固く絞った雑巾で、ブラッディナイトの纏った鎧を拭きはじめた。
しっかりと力を込め、鎧を汚した返り血や灰を、丁寧に拭ってゆく。
ブラッディナイトは、じっとその場に座したまま、アリスにされるがままになっていた。
どちらも無言である。
だが、息苦しさはなかった。
不思議な、ゆったりとした時間が、二人を包んでいるようであった。
広い鎧の背を、腕を伸ばしながら、アリスが拭いてゆく。
その感触を鎧越しに感じながら、奇妙な女だ、とブラッディナイトは思った。
レイドリックたちでさえ、ブラッディナイトを恐れ近寄ろうとさえしないというのに、アリスだけはこうも気安く接してくる。
「お前、俺が怖くないのか?」
ふと、そう訊いてみた。
「怖い?」
アリスが手を止め、問い返した。
「ああ」
「どうしてですか? ブラッディナイト様は共に戦う仲間でしょう」
「まあ、そうだな」
「だったら、何も怖がることなんてないじゃないですか」
「それは……そうなんだが」
あまりにあっけらかんとしたアリスの答えに、ブラッディナイトは言葉に詰まった。
「しかし、お前は俺の戦いぶりを見て、何か思うところはないのか?」
「そうですね……」
と、アリスはなにやら考え込んでいるようであった。
やはりそうか、とブラッディナイトは思った。
ブラッディナイトの戦いはあまりに凄惨で、容赦がない。
それに恐怖を感じたとしても、当然のことだ。
レイドリックたちでさえ、俺を恐れ近寄ろうとさえしないのだ。
この女も、心中では俺を悪鬼羅刹のように思っているのだろう。
ふっと、自嘲するような笑みがブラッディナイトの唇に浮かんだ時――
「戦っている時のブラッディナイト様は、なんだかとても悲しそうに見えます」
と、アリスが言った。
予想外の答えに、ブラッディナイトは一瞬、我が耳を疑った。
「悲しそうだと? 俺が?」
「ええ」
バカな。
何を言っているのだ、この女は!?
弾かれたように、ブラッディナイトは振り返った。
「きゃっ!?」
突然体を起こしたブラッディナイトに驚いたアリスが、小さく声をあげた。
「ブラッディナイト様? どうかなさいましたか?」
「あ、ああ――いや、何でもない。驚かせてすまなかった」
平静を装いながら、ブラッディナイトは言った。
だが、その胸中では、アリスの言葉がまだざわざわと波紋を広げていた。
ちっ――、
らしくないな。
唇を噛みながら、ブラッディナイトはそう思った。
俺が、こんな女の言葉一つで、こうも動揺するとは。
「今日はもういい。持ち場に戻れ」
そう言って、ブラッディナイトは腰を上げた。
「そう……ですか」
ブラッディナイトの背に、アリスの手のひらがそっと添えられた。
「血、落ちませんでしたね」
と、アリスが呟いた。どこか寂しげな呟きであった。
「そうだな」
振り返らぬまま、ブラッディナイトは答えた。
永く返り血を浴び続けてきたブラッディナイトの鎧は、もはや元の色が何であったか分からぬほどに変色していた。
今日新たについたものはともかく、乾き切ってしまった古い血糊は、もはや拭った程度では落とすことはできなくなってしまっている。
それでも構わないと、ブラッディナイトは思っていた。
自分が戦い続ける限り背負い続けていかなければならないもの。
それを象徴しているのが、この血塗られた鎧なのだと、そう思っている。
「俺はもうゆく。お前も、自分の持ち場へ戻るがいい」
「はい――」
今度こそ、アリスはそれ以上ブラッディナイトを引きとめようとはしなかった。
俯くアリスを振り返ろうとせず、ブラッディナイトは歩き出した。
ブラッディナイトの心の中に、風が吹いていた。
錆付いた、乾いた風であった。
5/
アリスは手に水差しを持ち、花に水をやっていた。
騎士団兵舎の片隅にある、小さな植物園である。
かつては様々な花々が互いの美しさを競い合うように咲き乱れていたそこも、大戦後は手入れをするものもなく、無残に荒れ果てていた。
アリスが騎士団にやってきてから、少しずつ手入れをし、ようやくまた花が咲くようになったのである。
とはいえ、元のような絢爛な花園には程遠い、ささやかなものである。
生い茂った雑草の中に、小さな花が僅かばかり咲いているだけであった。
それでも、アリスはここを気に入っていた。
物言わぬ植物たちも、よく見れば、その時々によって様々な表情を見せていることが分かる。
それは、ほんの小さな変化であるため、注意深く見なければ、気づかないだろう。
だが、分かるようになれば、植物たちのなんと雄弁なことかと驚かされる。
彼らは言葉を持たぬ代わりに、その体をめいっぱい使って、己を表現しているのである。
それを毎日眺めるのが、アリスのささやかな楽しみであった。
我が子を慈しむように、弱っているものがないか、虫のついている葉はないか、一つ一つ確かめながら、水をやっていく。
「――よし、みんな元気みたいね」
にっこりと微笑むアリスに、草花の瑞々しい葉も笑顔で答えたかのようであった。
その時、背後から聞こえた物音に、アリスは弾かれたように振り向いた。
「誰!?」
返事はなかった。
誰かがいる気配もない。
勘違いかとも思ったが、振り向いた瞬間、確かにふっと何者かの気配が動いたのを、アリスは感じていた。
気配を感じたのは、その一瞬だけだ。それきり、その何者かの気配は、ぷっつりと途絶えてしまっている。
だが、確実にいる。
あの角の向こうだ。
アリスは傍らに立てかけてあった箒を握り締めた。
この植物園も、グラストヘイムの中にある以上、敵――すなわち人間たちがやってくることがないとは言い切れない。
もし、人間だったら?
アリスとて、騎士団の一員であるからには、ある程度の戦闘技術は身に付けている。だが、相手が複数ならば、勝算は薄い。
いや、こうも見事に気配を殺せる相手なのだ。かなりの手練と見るべきだろう。たとえ一対一であっても、勝てるかどうか。
どうする――?
緊張の糸が、きりきりとアリスの中に張り詰めてゆく。
通路の角に油断なく視線を送りながら、自分の立ち位置を確認する。
今アリスが立っているのは、植物園の入り口付近である。
植物園から脱出するためには、何者かの潜んでいる、あの通路を通るしかない。
相手が一人ならば、植物園の中に誘い込み、どうにかして体を入れ替え、そのまま逃げ出すことも可能かもしれない。
だが、相手が二人以上ならば、それはできない。他の者が通路でそのまま待ち伏せしていれば良いからだ。
緊張から、箒の柄を握る手に、意識せずとも力が込められてゆく。
通路の角に潜む何者かは、じっとそこに留まったまま、こちらの様子を窺っているようであった。
アリスの、機械仕掛けの心臓が、とくん、とくん、とリズムを早めてゆく。
向こうが姿を見せぬ以上、こちらから仕掛けるか?
それとも、大声で助けを呼ぶか?
考えながら、もう一度、今度はゆっくりと、
「――誰?」
と、アリスは声をかけた。
返事を期待したものではない。
気配を隠していても、お前がそこにいることは分かっている――そう相手に伝えるためのものであった。
だが、アリスの思惑とは裏腹に、今度は返答があった。
「俺だ」
「その声は……ブラッディナイト様!?」
返事に続いて、通路の影から、巨大な人影がぬっと姿をあらわした。
血塗れの異様な鎧を纏った騎士であった。
その姿を見て、ふっとアリスの体から力が抜けた。
「もう。それならそうと早く言ってくださいまし。あやうく殴りかかるところだったんですよ」
咎めるように口を尖らせながら、アリスが言った。だが、その目は笑っていた。緊張から解き放たれた安堵が、ありありとその顔に浮かんでいる。
「すまない、怖がらせるつもりは無かった」
「何か私に御用がおありでしたか?」
「いや、そういうわけではないが……たまたまお前の姿を見かけたのでな」
そう言って、ブラッディナイトは周囲を見渡した。
「この花たちは、お前が?」
所々に咲いた小さな花を見ながら、ブラッディナイトが訊ねた。
「ええ。まだ大部分は荒れ果てたままですけど、いずれは一面に美しい花々が咲き誇る、そんな庭園にしたいと思っています」
「そうだな」
その光景を思い浮かべているのか、ブラッディナイトは、遠くを見つめるように目を細めた。
「ブラッディナイト様も、花がお好きなのですか?」
「あ――、いや」
慌てて、ブラッディナイトが首を振った。
その様子を見て、アリスの顔に、にやっと小悪魔的な笑みが浮かんだ。
「照れなくてもいいじゃないですか。ほら、ブラッディナイト様も一緒にお水をやりましょう」
はい、と、じょうろをブラッディナイトに手渡す。
「む、むぅ……」
「その花はミョルニル山脈原産のパンジーの一種で、こっちの白いのはですね……」
戸惑うブラッディナイトをよそに、アリスはうきうきとしながら自分が植えた花々について解説していく。
それを聞きながら、慣れぬ手つきでじょうろを傾けるブラッディナイト。
「えっと、アリス、こんな感じでいいのか?」
「あーっ、ダメですよ。そんなに水びたしにしたら根が痛んじゃいます」
「そ、そうか。すまん」
「まぁ、これくらいなら大丈夫ですよ。それで、ほら、あっちのつぼみのやつは……」
アリスはブラッディナイトの腕を取り、植物園の中を案内して回った。
終始楽しそうに喋りつづけるアリスに対し、ブラッディナイトは短く相槌を挟むだけであったが、不快に思っているようではなかった。
一通り植物園の中を巡り終え、二人は元いた場所に戻ってきた。
「――ブラッディナイト様」
ふと、アリスが、これまでとは違う口調でブラッディナイトの名を呼んだ。
「何だ?」
ぎゅっ、と、アリスが深くブラッディナイトの腕に自らの腕を絡めた。
ブラッディナイトの体があまりに大きいため、まるでアリスが木の幹に抱きついているかのように見える。
その太い腕に、アリスは額を押し当てた。
「今日のこと、忘れないでくださいね」
「――――」
ブラッディナイトは、無言でまっすぐ前を見つめていた。
「お花に水をやったこと。忘れないでください。あなたにも、育めるものがあるっていうこと、ずっと忘れないでください」
額を押し当てたままのため、アリスがどんな表情をしているのかは見えない。
「ああ」
短く、ブラッディナイトが答えた。
「約束、ですよ」
「ああ」
前だけを見つめたまま、ブラッディナイトはそう答えた。
6/
俺は、どうしてしまったのか――
一人、眼前の闇を睨みながら、ブラッディナイトはそう思っていた。
ブラッディナイトの脳裏に、一人の少女の姿が浮かんでいた。
メイド服に身を包み、曇りの無い笑顔で自分を見上げる少女。
アリスと名乗ったあの少女と出会ってから、俺はおかしくなったのだ。
らしくない。
この間もそうだ。
いつものように、騎士団内の見回りをしていた時のことだ。
見回りには、一人で出る。
レイドリックたちは、俺を恐れて、誰もついてこようとしない。
その時も、俺は、一人だった。
予定のコースを、半分ほど回った時だった。
ふと、視界の端にアリスの姿を見つけた。
アリスは一人、騎士団の奥へと歩いてゆくところであった。
以前の俺ならば、ただ見送るだけで、そのまま巡回を続けていただろう。
いちいち、部下の行動を気にすることなど、今まではなかった。
俺は、俺のやるべきことを全うすればよい。他の誰が何をしていようと、それは俺には関係のないことだ。
俺のやるべきこと――それは、騎士団に侵入した人間がいないかどうか、見回りを続けることであった。
なのに、その時の俺は、そうしなかった。
アリスを見かけた時にふっと胸に湧き上がった、得体の知れない感情を思い出す。
それは、痛みにも似ていた。
心臓を、細い銀の針で、そっと刺し貫くような痛み――
アリスはどこへ行こうとしているのか?
いつもの俺ならば、そんなことは気にならなかったはずだ。なのに、その時の俺は、それがひどく気になった。
それで、アリスの後を追ったのだ。
アリスの向かった先は、騎士団の片隅にある、古びた植物園であった。
騎士団に植物園があることは知っていたが、荒れ果て、もはや誰も気に留めることもなかったそこを、訪れるものがあるなどとは思っていなかった。
アリスは一人、そこで花の手入れをしていた。
楽しそうなその横顔を見ながら、俺は、不思議な高揚感を感じていた。
同時に、あの、乾いた風――
身を切り裂くような、たまらない風が、俺の中で吹き荒れていた。
その風に耐えかね、俺がそこから離れようとした時。
集中を欠いていた俺は、足元の小石につま先をぶつけたのだ。
「誰!?」
アリスが振り返った。
しまった――
そう思った時には、既に遅かった。
すぐに再び気配を殺したが、アリスははっきりと、俺がここに隠れていることを知っていた。
そのまま出て行ってもよかったはずなのに、その時の俺は何故かそうしなかった。
どうしてなのかは、俺にも分からない。
ただ、なんとなく、アリスに会うのが怖かったのかもしれない。
できれば、このままアリスに知られず、この場を離れたかった。
だが、アリスはじっと俺のいる方に注意を向けたまま、動こうとしない。
それで、俺も、身動きがとれなくなった。
「――誰?」
と、アリスが二度目に問うた時、俺はそこを立ち去るのを諦め、アリスの前に姿をあらわした。
それから、アリスに引っ張られ、植物園の中を二人で回った。
アリスから花についての話を聞かされたり、慣れぬ水やりを手伝わされたりした。
あれほどアリスに会わぬままやり過ごそうとしていたのに、いざ面と向かうと、俺の中にあった不思議な躊躇いのようなものは、なくなっていた。
胸の中を吹き荒れていた風も、止んでいた。
代わりに、なにか暖かなものが、ブラッディナイトの胸に点っていた。
今まで、名前さえ知らなかった――いや、知ろうとさえしなかった花々。そう珍しいものでも、素晴らしく華美なものでもない、ありふれた小さな花。それが、その時の俺には、何よりも美しいものに思えた。
そして、俺の腕を抱き、無邪気にはしゃぐアリスの横顔。
ああ、そうか――
と、ブラッディナイトは思った。
俺は、あの時、楽しかったのだな。
久しく忘れていた感情であった。
この身を剣とすることを誓った時から、そういった感情をずっと封じ込めてきたのだ。
何かを美しいと思うことも。
何かを楽しいと思うことも。
剣である俺には必要ないものだった。
剣に心は必要ない。
何よりも鋭く、何よりも硬く。ただひたすらにそれのみを追求し続ければよい。
感情は、刃を鈍らせる。
だから、俺は、心を捨てたのだ。
なのに。
だというのに、今の俺は――
闇を睨みつけるブラッディナイトの肉体が、みしり、と音を立てて軋んだ。
じっと座したまま、全身の筋肉が、みしみしと盛り上がってゆく。
何かが、ブラッディナイトの中で、激しくせめぎあっているようであった。
それを押さえつけるために、恐ろしいほどの力を振り絞っている。
ブラッディナイトは、砕けそうな程に強く、奥歯を噛み締めていた。
だが、ブラッディナイト自身は、そのことに気づいていない。
ただ、眼前の闇を睨んでいた。
いや、その闇さえも、ブラッディナイトの目には入っていなかった。
険しく細められたブラッディナイトの目は、己の中に広がる、無限の荒野を見ていた。
7/
絹を裂いたような悲鳴に、ブラッディナイトは弾かれたように顔をあげた。
アリスの声――!?
そう思った時には、既に、走り出していた。
どこだ。
どこから聞こえた!?
ブラッディナイトの巨体が、その重さを感じさせぬ疾さで駆けてゆく。
ブラッディナイトの耳に、遠くで鳴り響く剣戟の音が届いた。
その方角に向かって、ブラッディナイトは颶風と化して疾走した。
――いた!
「アリス!」
「ブラッディナイト様!?」
アリスがブラッディナイトの姿を見て、その名を叫んだ。
駆け寄ろうとしたブラッディナイトの足が、止まった。
アリスの後ろに、白銀の鎧を纏った人間の男が立っていた。騎士のようにも見えるが、鎧の意匠から察するに、大聖堂に所属する聖騎士だろう。
クルセイダーは、左手でアリスの腕を後ろ手に極め、右手に持った剣の切っ先を、アリスの喉元に突き付けていた。
戦闘は既に終わっているようであった。二人の足元に、破壊されたレイドリックたちの残骸が散らばっている。
顔を上げブラッディナイトを見たクルセイダーの目が、鋭く細められた。
「お前がブラッディナイトか。――ようやく会えたな」
「――アリスを放せ」
押し殺した声で言い、ブラッディナイトは一歩、クルセイダーに歩み寄った。
「言われるまでもない。この女はお前をおびき出すための餌に使うつもりだったが、お前の方から現れた以上、もはや用はない」
そう言って、クルセイダーはアリスの体を突き放した。
よろけたアリスを、ブラッディナイトが抱きとめる。
「あ……、ブラッディナイト様……」
恐怖に怯えた目が、ブラッディナイトを見上げた。
「もう大丈夫だ、お前は下がっていろ。ここからは俺の仕事だ」
「は、はい」
アリスは頷き、たたっと足早にその場から離れた。
「ふん、とんだ偽善者だな。闇の眷属が一端の騎士気取りか」
その様子を見ていたクルセイダーが、憎々しげに吐き捨てた。
「――お前は何者だ? 俺を知っているのか?」
剣を構えながら、ブラッディナイトはそう問うた。
クルセイダーは答えず、懐から何かを取り出した。
それは、古びたロザリオであった。
「これに見覚えがあるか?」
「――――」
ブラッディナイトは答えなかった。それは、不知の返事と等しい沈黙であった。
「はっ、記憶にないか。そうだろうな」
クルセイダーの口元が、引き攣ったような笑みに歪む。
「かつて、これと同じものを身につけていたプリーストがいた」
そう言って、クルセイダーはロザリオを強く握り締めた。
「そいつは、プリーストになるのが夢だった。優しくて、よく笑う子だったよ。いつも俺に、いつか立派なプリーストになって、仲間と共に退魔の仕事をしたいと、そう語っていた。そして、そいつはその夢を叶えた」
「――――」
「そいつは、いつも首から古ぼけたロザリオを下げていた。仲間から新しいものを買うように勧められても、そいつは決してそのロザリオを外そうとはしなかった。そいつが十の誕生日を迎えた時に、兄から揃いで贈られた、思い出の品だったからだ」
ロザリオを握るクルセイダーの指が、込められた力の強さに、白く変色していた。
「この地を訪れた時も、そいつはそのロザリオを身につけていた」
ぽたり、
と、赤い雫が、クルセイダーの拳から滴り落ちた。
「ここまで言っても、お前は思い出すことはないんだろうな。お前にとっては、無数に殺してきた人間の中の一人に過ぎないんだからな。でも、俺にとっては、この世でただ一人の血を分けた肉親だったんだ」
「――――」
ブラッディナイトは、無言であった。
風が吹いていた。
あの、ブラッディナイトの心中にのみ吹く風だ。
「逃げ延びた唯一の生き残りが、俺に教えてくれたよ。妹を殺した奴の名をな――」
ブラッディナイトを見つめるクルセイダーの目に、烈しく燃える憎しみの炎が揺らめいていた。
そうか――
と、ブラッディナイトは思った。
クルセイダーの握っているロザリオを見つめる。
あれは、俺が背負っている十字架だ。
俺が戦い続ける限り、無限にその重さを増してゆく十字架。それが、あれなのだ。
クルセイダーはロザリオを自らの首にかけ、剣を構えた。ブラッディナイトも、無言で剣を握り直す。
ここから先は、もはや言葉の必要ない世界だ。
「ゆくぞ!」
クルセイダーが地を蹴った。
――疾い!
肩口から袈裟懸けに斬りかかって来た一撃を、寝かせた刃で受け止める。衝撃が握った柄から腕に走り抜け、甲高い金属音が闇を震わせた。
剣を交えたまま、クルセイダーの右足が跳ね上がった。鋭い蹴りがブラッディナイトの横腹を打ち抜く。
一歩後退したところへ、横薙ぎに白刃が襲ってきた。それをスウェーで躱しながら、手にした大剣を振り下ろす。
切っ先が空を切り裂き、地面を抉った。飛び散った石片が鎧に跳ね返る。既に正面にクルセイダーの姿はなかった。
右か、左か――
思考よりも先に、体を前方に投げ出す。背中のすぐ近くを、殺気と共に刃が通り抜けた。そのまま転がって距離を取る。
体のバネを使って飛び起きたところに、クルセイダーが走りこんで来ていた。体重を乗せた一撃を、渾身の力を込めて迎撃する。鋼が悲鳴をあげ、衝撃が全身を駆け抜けた。
そのまま刃を跳ね上げ、返す刀で振り下ろす。今度はクルセイダーが剣の腹で受け止める側となった。
ぎりぎりと力を込める。圧倒的な体格差がありながら、交差した刃は空に縫いとめられたように動かない。
ブラッディナイトの目に、クルセイダーの口元が動くのが見えた。ぞくり、と冷たいものが背を駆け抜ける。
クルセイダーの全身が白光に包まれるよりも一瞬早く、ブラッディナイトは後方に飛び下がっていた。凄まじい爆圧が押し寄せ、ブラッディナイトの巨体がもんどりうって転がる。
グランドクルス――
己の闘気と魔力を体内で凝縮し、爆発させる技だ。剣を交えながら、既に詠唱を開始していたらしい。あのまま至近距離で受けていれば、致命傷となっていただろう。
起き上がったブラッディナイトの頭上から、すぐさま追撃が襲ってくる。それを受け止め、ブラッディナイトは心の中で感嘆した。
なんという男か、このクルセイダーは――
グランドクルスは、その絶大な威力と引き換えに、己の肉体をも著しく損傷する。だというのに、この男はそれを微塵も感じさせない。今の斬撃も、最初と変わらぬ重さと疾さを持っていた。
ただの人間が、どれほどの修練を重ねればこの域まで到達するというのか。
「グランドクルス!」
「――ッ!」
再びクルセイダーの全身が白光を帯びた。今度は避けるだけの余裕がない。咄嗟に腕を交差させ、剣で体幹をガードする。
吹き飛ばされたブラッディナイトの体が、壁面に激突して鈍い音を立てた。両肩と右足が焼けるように熱い。見れば、鎧が砕け、破れた皮膚から赤黒い血が脈々と流れ出している。
しかし、クルセイダーの方も無事ではなかった。グランドクロスを放つということは、自らの肉体を爆弾と化すのに等しい。それを連発したのだ。沸騰した血液が皮膚を破り、白銀の鎧は血塗れになっている。
肩を大きく上下させ、喘ぐような呼吸を繰り返しながら、しかしなおもクルセイダーは向かってきた。
白刃が打ち合わされ、剣戟の音が闇に響く。ダメージはクルセイダーのほうが大きいだろう。しかし、死に瀕しながら、その剣は衰えるどころか、さらに鬼気を帯びてゆく。
クルセイダーが剣を振るうたび、鮮血が迸る。このまま戦い続ければ、ブラッディナイトの手にかからずとも、男は死ぬだろう。
いや――
と、ブラッディナイトは思った。
元より、死ぬつもりなのだ、この男は。
命が惜しくて戦っているのではない。己の命と引き換えに、この俺を道連れにすることがこの男の望みなのだ。
ぎり、とブラッディナイトの肉体が張り詰める。
「おぉおおおおお!」
血を吐くような裂帛の気合と共に、クルセイダーの剣がブラッディナイトを襲う。それらを受け止めながら、ブラッディナイトは不意に、男と自分とが重なり合うような感覚を味わっていた。
この男が、どれだけ己を鍛え上げてきたのか。
この男が、どういう思いで剣を振るっているのか。
ここに至るまで、この男がどれだけのものを犠牲にしてきたのか。
それが分かる。
言葉にしなくとも、こうしてこいつと剣を交えていれば、痛いほどに分かる。
それでも――
大きく振るわれたブラッディナイトの剣が、受け止めた剣ごとクルセイダーの体を弾き飛ばした。
二、三度地面を転がって、クルセイダーがよろめきながら立ち上がった。満身創痍の体を、杖代わりにした剣で支えている。
大きく体を震わせて、クルセイダーが咳き込んだ。吐き出した血と対照的に、顔色は蒼白であった。連発したグランドクルスの反動で、内臓はもはやズタズタだろう。
ブラッディナイトも、無傷ではない。鎧はあちこちが損傷し、無数の傷口からピンク色の肉が覗き、鮮血が溢れ出している。
ブラッディナイトは、両手で剣の柄を握り、正眼に構えた。
それを見て、クルセイダーも剣を握り直す。震える切っ先が持ち上がり、真っ直ぐにブラッディナイトに向けられた。
その口元が、ゆっくりと詠唱を紡いでゆく。グランドクルスだ。おそらくは、この男が生涯に放つ、最後の一撃。
まさしく全身全霊を込めたその一撃がもたらす反動に、男の肉体はもはや耐えられないだろう。
それでも、男は詠唱を止めようとはしない。
それは何故か。
ブラッディナイトには、その理由が分かっていた。
この男も、俺と同じなのだ。
戦うことしかできない。戦うこと以外の生き方を知らない。こうして戦場で剣を交えることでしか、己の存在を証明することができない。
戦うために、他のものは全て捨てたのだ。他には何もない。喜びも哀しみも、自らの命さえも。
「――来い」
ブラッディナイトは剣を握る両手に力を込めた。次が、お互いに最後の一撃になるだろう。その結果、自分が生き残るか死ぬかは分からない。それでも、そこから逃げようとは思わなかった。
この男に、修羅の道を強いたのは俺だ。俺がこいつの妹を殺したから、男は復讐にのみ生きる道を選ばざるを得なかった。ならば、その幕引きは俺がしなければならない。それで、この男が救われるわけではない。それでも、最後までこの男の戦いに応じ続けることが、己に課せられた役目なのだという気がしていた。
二人は同時に地を蹴った。絶叫が轟き、渾身の力を込めた刃が大気を切り裂いて唸りを上げる。男の肉体が灼熱の光を帯びて輝き、ブラッディナイトの刃が男の頭上を襲った時、二人の間に人影が飛び込んできた。
――アリス!?
ブラッディナイトがそう思った刹那、轟音と共に周囲が爆風に包まれ、白光が闇を焼き尽くした。
8/
薄く目を開いたアリスの視界に、自分を見下ろすブラッディナイトの顔が映った。
「あ……ブラッディナイト……さま」
声と共に、唇から血が溢れ、アリスの頬を伝い落ちた。
「喋るな。傷に障る」
ブラッディナイトが、短く、そう言った。
アリスは、後頭部をブラッディナイトの膝に乗せ、仰向けになっていた。
すぐ近くに、クルセイダーが倒れている。意識は失っているが、かろうじてまだ生きているようであった。咄嗟に割って入ったアリスに、ブラッディナイトの剣は最後まで振り切られず、クルセイダーの放ったグランドクルスも最大威力ではなかった。
だが、それでも、両者のぶつかり合った衝撃は今、アリスの命を静かに奪い去ろうとしている。
ブラッディナイトは、アリスの頭を膝に乗せ、うなだれながら体を震わせていた。
救えなかった。
目の前にいながら、救うことができなかった。
こうしている間にも、アリスの体から、急速にその温度が失われてゆく。
だが、どうすればいいのか。
どうすれば、消えゆく命をとどめることができるのか。
分からなかった。
ただ、肩を震わせ、アリスの顔を見つめることだけが、ブラッディナイトにできる全てであった。
「すまない」
そう呟いた。
そんなブラッディナイトに、アリスは静かに微笑みかけ、
「また、悲しそうな顔してる……」
そう言って、ゆっくりと腕を持ち上げた。
血の気の失せた、震える手であった。どれほどの力も込められていないその手が、そっと優しくブラッディナイトの頬を撫でた。
「すまない――」
もう一度、ブラッディナイトがそう言った。
アリスが、小さく首を振った。
「ダメ、ですよ。そんな顔してちゃ……」
「――――」
「ほら、笑って……」
「そんなこと、俺にはできない。俺は、救えなかった。お前を助けることができなかった――!」
そうだ。
最初から分かっていたはずだ。
元々、何かを救うなどということが、愚かな望みだったのだ。
「俺は、剣だ」
慟哭しながら、ブラッディナイトは呟いた。
「殺すことしかできない。奪うことしかできない。それが俺だ。何かを救うことなど、できるはずもなかったのだ」
血を吐くように、ブラッディナイトは言った。
アリスは、何も言わず、無言でブラッディナイトを見つめていた。
「何故、俺は心を持って生まれてきてしまったのだ。剣ならば、はじめから剣として生を受ければよかったのだ。冷たい鋼の体を血に濡らし、ただ戦うだけの道具として生まれてくればよかったのだ」
アリスの、紫に変色した唇が、ふっと笑みの形を作った。
困った子ね――
そう言いたげな笑みであった。
「……違いますよ」
掠れた声で、アリスが言った。
「あなたは剣なんかじゃない。ちゃんと、心があります」
「そんなことは――」
「いいえ。私にはわかります。あなたが戦いのたびに、どれだけ心を痛めてきたか。あなたが、孤独に身を置きながら、どれだけ寂しい思いをしてきたか……」
「――――」
「今までずっと、泣くこともできずに、一人で耐えてきたんでしょう。でも、辛い時は、泣けばいいんです。それで、いっぱい泣いたら、また笑顔に戻ればいいんです」
「そんな……こと……」
ブラッディナイトの頬を、透明な雫が伝い、顎の先からアリスの顔に落ちた。
同時に、ブラッディナイトの纏った鎧が、一つ、また一つ、ほどけるように脱げ落ちてゆく。
これまで、ブラッディナイトが片時も脱ぐことのなかった、巨大な血塗れの鎧。
その下から現れたのは、まだ幼さの残る少年であった。
それは、ずっと鎧で隠してきた、ブラッディナイトの本来の姿であった。
「アリ……ス……」
か細い声で、ブラッディナイトだった少年――ぷちきしが、呟いた。
その頬を、アリスの手のひらが、まるで母親がそうするように、優しく撫でた。
「う……」
ぷちきしの目から、大粒の涙が溢れた。
「うわぁああん!」
ぷちきしは、アリスの胸に顔を埋めるようにして、大声で泣きじゃくった。
「ふふ、ブラッディナイトさま、泣き虫……ですね……」
アリスは、静かに微笑みながら、力尽きるまでずっとぷちきしの頭を撫でていた。
そうして、どれだけの時間が流れただろうか。
ふと、ぷちきしの肩を、誰かが叩いた。
「あ……」
ぷちきしが、顔をあげた。それで、はじめて、自分が泣き疲れて眠ってしまっていたことに気が付いたようであった。
振り返ったぷちきしの前に、イリューが立っていた。傍らには、ダークロードもいる。
「イリュー様……それに、ダークロード様まで」
「その姿のおぬしに会うのは、久しぶりじゃな」
と、イリューが微笑みながら言った。
「あ……、はい」
ぷちきしが、ぺこりとお辞儀をした。
だがすぐに、はっと何かに気づいたように顔をあげ、
「――そうだ、アリスは!?」
と、叫んだ。
「なに、心配いらぬよ。アリスなら、お前の横で眠っておる」
「え……」
振り返ると、確かにアリスは、すやすやと安らかな寝息を立てていた。時折、むにゃむにゃと何やら寝言まで呟いている。
無残に抉られたはずの傷痕は、跡形もなく消えていた。
「これは……いったい……!?」
戸惑いながら、ぷちきしはイリューとダークロードの顔を見た。
「まさか、お二人が……?」
「気にすることはない。当然のことをしたまでじゃ」
イリューはにっこりと微笑みながらそう言ったが、ダークロードはむすっとした顔のまま何やらぶつぶつ呟いていた。
「ふん、何故我がわざわざこのような真似を……いてっ!」
無言で、がつん、とイリューがダークロードに肘鉄を入れた。
「あ……、ありがとうございます!」
再び、ぺこりとぷちきしが頭を下げた。
「礼なら、アリスに言ってやるのじゃな。そんなにいい顔で笑うおぬしは、初めて見たわ」
「え……そ、そう……ですか?」
かあっとぷちきしの顔が赤くなる。
それを見て、イリューはふふっと微笑み、
「さて、それでは我々はもう行くとするかのう。さ、父上」
「ちょ、待てイリュー! さっきの肘、モロに入って……」
まだ痛みにのたうち回っているダークロードを引きずるようにして、その場を去っていった。
ぷちきしと、眠ったままのアリスだけが、そこに残された。
「アリス……」
ぷちきしは、アリスの寝顔を覗き込み、呟いた。
「良かった、本当に……」
思わず、じわっと、ぷちきしの目に涙が浮かんだ。
ぷちきしが目蓋を拭おうとしたその時。
「むにゃむにゃ……うーん、ブラッディナイトさま……」
「わぷっ!?」
ぷちきしは、ぎゅっとアリスの胸に抱きしめられていた。
柔らかな胸の膨らみが、ぷちきしの顔に押し当てられる。
「あ、アリスっ……ちょっと、息できなっ……」
「ふふー……」
じたばたともがくぷちきしを、アリスはぎゅう、とさらに強く抱きしめ、その頭をぐりぐりと撫で回す。
「アリスっ、ホントはもう目が覚めてるんじゃないの?」
「んー……何のことでしょう……ぐーぐー……」
「ほらっ、やっぱり!」
「聞こえません……むにゃむにゃ」
わざとらしく狸寝入りを続けるアリスに、やれやれとため息をつきながら、ぷちきしは太陽のように明るい笑顔を浮かべていた。
了