凍れる鎧

  0/夢


 俺がずっと考えていたことは、俺が見ているこの世界は、全て夢なのではないかということであった。
 夢である、と確信を持っているわけではない。
 確信するだけの理由がないからである。
 しかし、理由がないというのならば、現実であると言い切る理由もまたないのである。
 つまりは、何も分からないということだ。
 それでも俺は、これを夢だと思っている。
 いや、思うことにしている。
 そもそも、夢と現実とをどう区別すればよいのだろうか。
 現実ではありえないことが、夢では起こりうる。それが違いだと言う人もいるだろう。
 しかし、ある出来事が「ありえる」のか「ありえない」のかを測る物差しは、どこから来るのだろうか。
 その物差しが絶対に正しいと、誰が言い切れるだろう。
 一つだけ、確かなことがある。
 夢はいつか醒める。
 ただそれだけだ。
 その一点だけが、夢と現実とを区切る、唯一の違いである。
 だから、この世界が夢なのか、それとも現実なのか、そんなことをいくら考えても、結局意味のないことなのである。
 答えを知ることができるのは、夢から醒めた時だけなのだから。
 夢だと思うことにした、というのは、そういうことである。
 何故、俺がそう決めたのか――
 もしもこれが夢だとするならば、間違いなく最上級の悪夢であろう。
 だが、どんな悪夢であろうと、夢である限り、いつかは醒める時が来る。そう思えば、どんな苦痛も、少しは希望があるような気がしてくる。
 だから俺は、この世界を夢だと思うことにしたのである。いつか、醒める時が来ると願いながら。
 俺がこの夢を見続けて、どれほど経っただろうか。
 十年?
 百年?
 もっと長い間かもしれない。
 果てしない時の中、幾度となく繰り返される夢。
 剣戟と、血の臭いと、無数の死に彩られた夢。
 修羅の夢である。
 毎回、内容に些細な違いはあるが、基本的なストーリーは変わることがない。
 始まりはこうだ。
 気がつくといつも、薄暗い闇の中を走っている。
 どこかの建物の中だ。
 窓はない。灯りといえば、壁にかけられた燭台の蝋燭だけである。
 その仄かな光に照らされ、薄く埃の積もった石床や、半ば崩れ落ちた壁が見える。壁面には刀剣や槍がかけてあり、折れた剣や破損した鎧があちこちに転がっている。
 僅かに残った絨毯には、黒く変色した血の跡や、焼け焦げた跡が残っている。
 『俺』は全身に甲冑を纏っている。古ぼけてはいるが、しっかりした造りの甲冑だ。足を踏み出すたび、低い金属音が響く。
 だが、それだけの重装備でありながら、その重さは全く感じられない。
 走っているのも、俺の意思がそうさせているのではない。
 『俺』は何かを目指して走っているようであった。だが、それが何であるか、俺にはわからない。
 不思議な感覚であった。
 俺は『俺』の目を通して物を見ている。
 俺は『俺』の耳を通して音を聞いている。
 だというのに、『俺』の体を支配しているのは、俺ではないのだ。
 この世界で、俺は傍観者でしかないのである。
 『俺』は、俺ではない何かに操られているのかもしれない。
 ならば、『俺』を操っているのは何なのか?
 分からなかった。
 それとも、元々『俺』と俺は全くの他人であって、俺の精神だけが俺自身の肉体を離れ『俺』に取り憑いているのだろうか。
 ならば、俺自身の肉体はどうしてしまったのか。
 もしかしたら、そんなものは初めから存在しないのかもしれない。俺は自分でも気がついていないだけで、初めから肉体など持っていなかったという可能性だってある。
 意識だけの存在。それは、本当に存在していると言えるのだろうか?
 この問いを思うたびに、ふっと自分が希薄になったような錯覚に襲われる。
 冷たい闇の中に、己が溶けていくような感覚。
 俺という存在が、希薄になってゆく恐怖。
 だが――
 『俺』は立ち止まった。
 目の前には、長剣を携えた騎士と、法衣に身を包んだ聖職者――そしてその後方に、ローブを纏った魔術師らしき男。
 どれも見知らぬ顔だ。
 彼らも『俺』に気付いたようであった。騎士は抜刀すると僅かに腰を落とし、握った剣を正眼に構えた。他の二人も杖を手に左右に散る。戦うつもりのようだ。
 ざわ、
 と、俺の中で、何かが蠢いた。
 意識が細くなっていき、世界が収束していく。
 視界から、眼前にいる三人の男たち以外の存在が消えていく。
 金属が軋む音と共に、『俺』が剣を構えた。
 瞬間、『俺』の意識が、俺の中に流れ込んでくる。
 声が聞こえた。
 『こいつらは、侵入者だ』
 俺は答えた。
 (ああ、そうだな)
 声は続く。
 『俺は、この地の守護者』
 俺は答える。
 (そうだ。俺はここを守らなくちゃいけない)
 『俺』の意識と、俺の意識が、混ざり合う。
 時計の針が重なり合うように、分離していた二つのものが、ある一つの方向に向かって融合していく。
 『こいつらは、敵だ』
 (こいつらは、俺の敵だ)
 爆発にも似た衝動が湧き上がる。
 『俺』が俺になり、俺が『俺』になる。
 その時、希薄に感じていた自己の存在を、再び強烈に自覚する。
 ――俺は確かに、ここに居る。
「おぉおッ!」
 俺は吼えた。
 地面を蹴り、一気に間合いを詰める。
 そのまま、先頭の騎士に向かって、真一文字に剣をなぎ払った。
 鋼が打ち合わされる、甲高い金属音。
 騎士は、左手の盾で俺の剣を受け止めていた。
 俺はすかさず足を飛ばし、騎士の足を払った。
 ぐらりと騎士の体勢が崩れた。――今だ。
 剣を振りかぶり、思い切り振り下ろす。
 確実に騎士の体を捉えたと思った剣先は、僅かに肩口を切り裂いただけであった。
 刃が深く沈みこむより早く、俺の胴に雷球が命中し、衝撃が俺の体を後方に吹き飛ばしたのである。
 もんどりうって倒れた視界の端に、杖を構えた魔術師が見えた。迂闊だった。敵は一人ではない。
 俺が体勢を立て直すより早く、騎士の剣が襲い掛かる。
 こちらも迎え撃とうとするが、体の動きが鈍い。今のユピテルサンダーで、どこかに損傷を受けたのかもしれない。
 体を捻って避けようとしたが、間に合わなかった。左腕が飛ばされ、鈍い金属音と共に地面に転がる。
 右手だけで剣を握り直し、続く斬撃を受け止める。
 切り結ぶ切っ先が奏でる鋼の旋律が、闇に響く。
 騎士の踏み込みは鋭く、繰り出す斬撃は重い。見れば、先ほど負わせた肩の傷は既に治癒しているようであった。
 後方にいる聖職者の術である。奴らが得意とする治癒法術は、よほどの深手でない限り、たちどころに回復してしまう。
 騎士もそれを後ろ盾に、思い切りのいい攻撃を仕掛けてくる。
 強化法術も施されているようだ。刃を受け止めるたびに、衝撃が腕を痺れさせる。右手一本でどこまでも受けきれるものではない。
 それに、後方には魔術師もいる。既に詠唱を開始しているようだ。先ほどは咄嗟であったため向こうも魔力の凝縮が充分ではなかったようだが、今度は違うようだ。高濃度の魔力が杖の先に集まっていくのが見える。あれの直撃を受けるのはまずい。
 だが、騎士の剣を捌くのに手一杯の状態では――
 俺は心の中で舌打ちした。だが、次の瞬間、
「ぐあっ!?」
 突如、魔術師が苦痛の声をあげた。
 その肩に、黒い矢が深々と突き刺さっていた。
 聖職者の注意が魔術師の方に逸れた。
 仕掛けるならこの瞬間しかない。
 俺は剣を引いた。ここぞとばかりに、騎士がとどめの一撃を放とうと踏み込んでくる。間合いが詰まった一瞬を狙って、俺は全身の気を放出した。
 炎気を帯びた闘気が、爆発に近い衝撃を巻き起こし、騎士の体を吹き飛ばした。
 すかさず剣を構え、追いかける。
 捉えた――、そう思った時、俺の肩に鋭い衝撃が走った。
 見ると、騎士の剣が、深々と右肩に突き刺さっていた。
 ――オートカウンターか!
 相手の攻撃を受け流し、その勢いを利用して必殺の一撃を叩き込む、高度な技である。
 俺は心の中で、己の迂闊さを呪った。
 誘い出されたのは、騎士のほうではなく、俺だったのだ。
 騎士はそのまま体を浴びせるようにして、俺を押し倒した。肩を貫いた刃が地面に食い込み、俺の体を地面に縫い止める。
「今だ!」
 騎士が叫んだ。
 魔術師の口が動き、何かの詠唱を紡いでいく。
 杖が青白く輝き出し、魔術師の周りに冷気を帯びた魔力が集結していく。――あれは、ストームガストだ。
 俺は騎士の後方を見た。俺の仲間――さっき矢を放って援護してくれた奴がいるはずだ。
 俺が動けない以上、奴の援護だけが頼みの綱であった。
 視線の先で、全身を鈍い黄土色の鎧に包んだ兵士が、巨大な弓を構えていた。
 ぎり、と弦が引き絞られ、弓が大きくしなる。
 そこから、漆黒の矢が唸りをあげて放たれた。
 一直線に空気を切り裂いて飛来した矢は、魔術師の体に触れる直前で、突然勢いを失って地面に落ちた。
 魔術師の足元から光を放つ霧が立ち上り、全身を包んでいた。
 ニューマ――聖職者が行使する法術の一つだ。飛来する物質を退ける力を持った、小規模な結界である。
 弓の奴が二の矢を構えるのが見えた。だが、いくら矢を放とうとも、結界を破ることはできない。
「くそっ!」
 俺は思い切り体を捻った。
 僅かに肩が浮いた。
「この野郎、まだ動くか――!」
 俺の動きに気付いた騎士が、抜けかかった剣を再び深く突き刺した。そのまま、がっしりと柄を握り押さえつける。
 みしり、と肩が軋み、貫かれた部分から幾筋ものひびが広がっていく。
 それでも構わず、反動をつけて何度も体を捻る。
 鈍い音と共に、肩から先がもぎ取れた。
「しまった!」
 騎士は慌てて剣を抜こうとしたが、深く突き立てすぎたため、すぐには抜けなかった。
 その隙に俺は跳ね起き、魔術師に向かって駆け出した。
 両腕は既に無い。だが、鎧の重さを生かして体当たりをかませば、致命傷とはいかずとも、かなりのダメージを与えられるだろう。
「うおおおお!」
 叫びながら、俺は頭から魔術師に向かって突進した。
 俺の体が、魔術師の体に触れようとした刹那――
 猛烈な冷気の渦が、俺の体を跳ね上げた。
 ふっと上下の感覚が消失し、視界がでたらめに回転する。
 凄まじい風圧に翻弄され、俺の体は紙切れのように舞い踊った。ただの風ではない。全てを凍りつかせる猛吹雪である。体中が瞬く間に凍結し、音を立てて砕けていく。
 ようやく吹雪が止んだ頃には、俺の体はバラバラになって周囲に散らばっていた。
「ちっ、手こずらせやがって――」
 騎士が言い捨てて、俺の首を蹴り飛ばした。
 俺は頬にあたる冷たい石床の感触を感じながら、遠くから近づいてくる馬の蹄の音を聞いていた。
 ああ――
 暖かな安堵感が、俺の中に広がってゆく。
 あの方が来てくれた。
 誰かは分からない。
 だが、俺はあの方が来るのをずっと待っていたような気がする。
 視界がゆっくりと闇に覆われていく。
 不思議な安らぎを感じながら、俺は幾度目かも分からぬ死を迎えていた。


  1/現在


 ぼんやりと、天井を見ていた。
 蝋燭の炎が、ゆらゆらと仄かな光を投げかけている。
 石造りの天井である。かなり古い建物であるらしく、所々から漆喰がこぼれ出ている。黒ずんだ色合いは、すすであろうか。ひょっとしたら、以前火災にあったことがあるのかもしれない。
 見覚えのない眺めであった。
 天井が見えるということは、俺は今、仰向けになって寝ているということだ。
 背中に、柔らかな布の感触があった。頭の下には枕も置かれているようだ。
 天井を見ながら、俺は一つの疑問を考えていた。
 ――ここは、どこだ?
 分からなかった。
 とりあえずベッドから起きよう――、そう思って上体を起こそうとした時、鋭い痛みが全身を駆け抜けた。
「痛ぅ――」
 思わず顔が歪んだ。
 同時に、不思議な驚きに襲われた。
 一瞬考えて、驚きの正体に気がついた。
 俺は、自分の声に驚いたのである。
「あ、あ――」
 恐る恐る、声を出してみた。
 妙な違和感があった。
 まるで、自分の声ではないような耳慣れなさがあった。
 俺の声は、こんな声であったのか?
 そう考えた時、ふと気がついた。
 そもそも、俺はどのような声をしていたのか?
 思い出せなかった。
 もっと低かったのか、もっと高かったのか。濁った声であったのか、澄んだ声であったのか。
 全く記憶にないのである。
 もう何年も、自分の声を聞いたことがないような気さえしてくる。
 自分の声――?
 そこまで考えて、不意に驚愕した。
 そもそも、俺は一体誰なのか――
 俺が忘れていたのは、己の声だけではなかった。
 名前も、年齢も、職業も、家族も、友人も、何もかもが思い出せなくなっていたのである。
「気がつきましたか」
 ふと、声がした。
 見ると、すぐ傍らに、赤い服を着た女が立っていた。
 見知らぬ顔であった。
 柔らかなウェーブのかかった金髪を、腰のあたりまで伸ばしている。
 年は二十代半ばといったところであろうか。
 思わずごくりと唾を飲み込むような、肉感的な体つきをした女であった。
 大胆に肌を露出させた服装が、その魅力を際立たせていた。
 こぼれんばかりの豊満な乳房が薄い布地を押し上げ、深くスリットの入ったスカートからは、尻から太ももへかけての妖艶な曲線が覗いている。
 蟲惑的な色香を持った女であった。
 女は、にこやかな微笑みを浮かべながら、纏った服と同じ赤色の瞳で、じっとこちらを見ていた。
「君は――?」
「私の名前、ということでしたら、お答えできません。名は捨てました」
「捨てた?」
 女は、ええ、と頷いた。
「名前など、私にはもはや意味のないものですから」
「意味がない――?」
 名前に意味がないとは、どういうことであろうか。
 気にはなったが、どことなく訊くのが憚られた。きっと、容易には語れない理由があるのだろう。
「ですが、人は私を赤の司祭と呼びます。呼び名がないのが不都合でしたら、どうかあなたもそのようにお呼びください」
「赤の司祭――」
 その言葉を呟いてみる。だが、その響きには覚えがなかった。やはり、俺は彼女のことを知らないのだろうか。
 だが、俺は自分が誰であるかさえ知らないのだ。もしかしたら、彼女も本当はよく知っているはずなのに、それを忘れてしまっているだけなのかもしれない。
「ここはどこだ? 君は何者だ? 俺は何故ここにいる? いや、俺は何者なんだ?」
 意識がはっきりしてくるにつれ、疑問が次々と湧き出てきた。
 それを思い浮かぶままに口にする。
「そんなに一度に訊かれても、困ります」
 司祭は苦笑して、そう言った。
「あ――、そうだな。すまない」
 俺は口を閉じ、混乱していた頭の中を整理した。
 一つ大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着ける。
「じゃあ、俺が誰なのか、まずそれを教えてくれ」
「憶えていないのですか?」
 俺は、ああ、と頷いた。
「どうしても思い出せないのですか?」
 司祭の赤い瞳が、じっと俺の目を見つめる。心の奥底を見透かそうとするような、真剣な眼差しであった。
 俺はしばらく沈黙し、己の記憶を探った。
 他のものならば思い出せる。ベッド、机、天井、窓、蝋燭――俺は部屋を見渡しながら、目に映るものの名前を一つずつ心の中で呟いた。
 どれもしっかりと認識できるようであった。
 だが、自分の過去に関することだけは、どうしても思い出せなかった。
 存在しない、というわけではない。記憶が確かに『在る』ことは分かる。中身は分からないが、輪郭のようなものだけは感じ取ることができる。
 まるで、記憶のその部分だけに、黒いヴェールを被せたようであった。
 だが、そのヴェールのめくり方が分からないのである。
 俺は目を閉じ、首を振った。
「そうですか――」
 司祭は目を伏せた。落胆したのだろうか、僅かに表情が翳ったようにも見える。
「……すまない」
 俺は反射的に謝っていた。
「いえ、貴方が謝る必要はありません」
 そう言って司祭は微笑んだ。だが、どこか先程より力のない笑顔に感じられた。
「そうかも知れないが、しかし――」
「気にすることはありません。原因は私にあるのですから」
 司祭は、気を取り直したように顔を上げた。
「分かりました。では、貴方のことについてお教えしましょう」
 俺は思わず息を呑んだ。ごくり、と喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
「貴方は、レイドリック、と呼ばれています」
 司祭は音を区切りながら、ゆっくりとそう言った。
「レイドリック?」
 その響きにも覚えがなかった。
「それが俺の名なのか?」
 司祭は少し首をかしげた。
「貴方の名前、というのとは、少し違います。貴方たちの名前というべきでしょうか。貴方個人の名前は、既に失われていますから」
「俺の名が失われた――それはどういうことだ?」
「貴方は、一度死んでいるのです。それも、一千年も前に」
「な――」
 何を言っている、と言おうとしたが、言葉が出なかった。
「レイドリックというのは、ダークロード様がその暗黒呪法によって作り出した動く鎧のことです」
「動く鎧――?」
 司祭は、ええ、と頷いた。
「貴方の死後、肉体は滅び、鎧だけがレイドリックとなって再生しました。ですが、貴方の魂は消えず、鎧と共に残っていました。それを元に私が肉体を再構築して生き返らせたのです」
「馬鹿な、死者が生き返るなどということがあるわけがない」
 俺は顔をそむけ、吐き捨てるように言った。
「そうですね、あるわけがないのです」
 そう言って、司祭はふふっと笑った。
 びっくり箱を仕掛けた姉が、それに引っ掛かった弟を眺めるような、小悪魔的な笑みであった。
「ですから、これまでの話は冗談です。貴方が記憶を失っているようだったので、ついからかってみたくなってしまいました」
「なんだ、驚かさないでくれよ」
 ほう、と息を吐き、俺はベッドに倒れ込んだ。
 さっきまで見えていた天井が、再び目に入った。
 見知らぬ天井であったが、どこか既視感がある。きっと、俺が記憶を失う以前にも見たことがあるのだろう。
 狭い室内に、沈黙が満ちた。
 司祭は部屋の隅に置かれていた机に向かい、何かを書き留めているようであった。
 俺もそれ以上、何も問わなかった。
 結局、俺は何者なのか。聞きたい気持ちもあったが、それ以上に、心のどこかに恐怖があった。
 さっきの話は冗談だと司祭は言っていたが、ひょっとしたら、あれは全て本当のことなのではないだろうか――
 そんな思いが、それ以上の追求を躊躇わせたのである。
 知りたいという欲求と、知りたくないという恐怖。
 相反する二つの思いが、二重螺旋のように心の中で絡み合う。
 思い出せない記憶。
 それは、思い出してはいけない記憶なのではないのか?
 真実に触れることが、必ずしも幸福なのだろうか?
 知らないほうが良いこともあるのではないか?
 ぐるぐると回る気持ちを抱えながら、俺は急速に眠気が迫ってくるのを感じていた。
 どうやら、酷く疲れているようであった。
 今は、ひとまず休んだほうがいいのかもしれない。ゆっくり眠れば、気持ちも落ち着くだろう。
 眠れば、きっと何か――
 眠り――夢。
 心の中に、ふっと浮かび上がってくるものがあった。
 俺はぼんやりと天井を眺めながら、思い出したことを何気なく口にした。
「そういえば、眠っている間、夢を見ていた」
「――夢?」
 司祭が、作業の手を止めて、俺の方を見た。
「ああ、酷い夢だった。昼も夜もないどこかの城で、俺はいつも誰かと戦っていた。来る日も来る日も――」
「――――」
 俺は天井を見たままであったが、司祭が真剣に俺の話を聞いていることだけは分かった。
「ただ剣を持ち、阿修羅の如く戦い続け、そのたびに俺は死に、そしてまた気がつけば戦いの中にいた」
 呟くように、俺は僅かに残った夢の記憶を語った。
 司祭に聞かせようとしているのか、それとも自分自身に語りかけているのか。俺自身、どちらなのか分からなかった。
「そう、それは辛かったでしょうね」
「ああ。でも、一つだけ不思議なことがあった。夢の中で俺が死ぬ時、いつも誰かの駆る馬が近づいてくるんだ。その蹄の音が、何故か俺に不思議な安堵感をもたらしてくれた」
「その誰か、というのは?」
「分からない。けど、とても――、とても大切な人だったんだと思う」
「――そう、でも、もうそんな夢を見ることはないわ」
「絶対に?」
 俺は司祭の顔を見た。
「ええ、絶対よ」
 司祭はきっぱりと言った。
「そうか」と呟いて、俺は目を閉じた。
 意識はすぐに、闇の中へと溶けていった。



 静かに寝息を立てるレイドリックの横で、司祭は静かな興奮に震えていた。
 ついに。
 ついに、望んでいた術を完成させたのだ。
 死した肉体を蘇生させる術は、これまでにもあった。現に、彼女の肉体は既に滅んでいるが、魔力によりこれを復元し、永遠の時を生きることに成功している。
 だがそれは、どちらかといえば蘇生よりは延命に近い。
 この術は違う。
 肉体が完全に消滅し、魂だけとなった存在を、再びこの世に蘇らせる――
 もはや、蘇生という領域さえ超越している。
 言うならば、転生である。
 人が扱えるものではない。それは、神のみに許された行為である。
 先ほど被験体と交わした会話を思い出す。
 死者が生き返るなど、ありえるはずがない――
 そう、森羅万象を司る法理に照らして、本来あるはずのないこと。彼女が知りうる中で、それを実現できる可能性を持っているのは、二人しかいない。
 絶大なる魔力を誇る闇の王、ダークロード。
 死と絶望を司る冥界の王、ロードオブデス。
 彼らならば、これに限りなく近いものは作り出せるであろう。
 だが、ここまで完全な形で実現できるかといえば、些かの疑問が残る。
 魔族の頂点に君臨する彼らでさえ自在にすることは叶わぬ、魂魄の転生。
 それを、彼女は成功させたのだ。
 それも、一度に二体も。
 彼女が生前から研究していた魔術だけでは、到底成し遂げられなかったであろう。
 気がつくと、彼女は自分の研究室に戻っていた。
 積み上げられた本の山に目をやる。
 魔術、法術、神学、自然科学など、様々な学問に関する書物が積み上げられている。
 その中の一冊を、彼女は手に取った。
 タイトルには、「人造人間(ホムンクルス)――その義体と魂」とある。著者の名は記されていない。
 彼女が、ゲフェニア遺跡から見つけ出してきた本である。
 恐らくは、ゲフェニアの錬金術師が著した本であろう。
 この術は、魔術の領域だけで成し遂げられるものではない。
 彼女が特に苦心した部分が、義体の作成であった。
 どう材料を上手く組み合わせても、所詮は紛い物の肉体である。あるものは人としての形を取らず、あるものはすぐに溶解して水泡と消えた。
 行き詰まりかけた研究に光明をもたらしたのが、この本であった。
 ゲフェニアの失われた技術――かつて人類最高の叡智を誇った魔術大国ゲフェニアは、魔術のみならず、錬金術や機械工学の分野でも、抜群の水準を誇っていた。
 それらを発掘し、再現し、組み合わせることで、ようやく今回の術が成功するに至ったのである。
 果てしない道程であった。
 この本の記述によれば、既に義体の技術は実用化もされているということであったが、その現物は発見できなかった。もしそれが見つかっていれば、もっと早くこの段階までこぎつけることができたかもしれない。
 残る問題は、記憶の復元だが――
 司祭は本を元の場所に戻し、机に向かった。
 もう何冊目になるか分からない自らの研究日誌。その末尾のページを開き、白い指先に鵞鳥の羽でできたペンを握る。
 司祭は、今日の実験結果をレポートに纏めながら、さらなる完成へ向けて考えを巡らせた。
 今は欠落しているが、記憶そのものが完全に消滅してしまっているわけではないようだった。先ほど、被験体はレイドリックであった時の記憶があることを示唆する発言をしている。
 この現象をどう考えればよいか。
 司祭は一つの仮説を組み立てた。
 それは、記憶は肉体だけではなく、魂にも同様に記録されるのではないか、というものである。
 ならば何故、被験体の記憶が欠落しているのか。
 反魂の術を施す際に、不手際があったのだろうか。あるいは幽体であった期間が長すぎたため、魂魄の希薄化が進んでいたのかもしれない。
 義体に魂を憑依させる時に、何らかの増幅回路を用いて魂魄の劣化を補う必要があるかもしれない。
 司祭は紙の上にペンを走らせ、魔術回路図のラフを書き込んでいった。
 その手が、ふと止まった。
 ――他に、何か別のアプローチはないだろうか?
 増幅回路を用いるとしても、それが正しく駆動する保障はない。
 希薄化の進行度合いには個人差があるだろう。
 予想以上に希薄化が激しければ、充分な魂魄濃度が得られないかもしれない。
 増幅率が高すぎた場合には、精神のオーバーフローを引き起こす危険性もある。
 憑依の瞬間だけに賭けるこの方法では、どうしても成否に運否天賦の要素が絡んでしまう。
 司祭は書き上げたばかりの設計図に、大きくバツ印を上書きした。
 失敗の可能性が僅かでもある限り、求める「完成」には届かない。
 チャンスはただの一度しかないのだ。
 もっと、確実な方法を考えなければならない。
 今の被験体の記憶を、何とかして復元することができれば――
 そのための糸口が、どこかにあるはずであった。
 司祭の心の中に、引っ掛かるものがあった。何かが、確かに復元は可能だという確信を彼女にもたらしていた。
 彼女は暫し考え込み、その正体に気がついた。
 それは、先ほどの被験体の言葉に出てきた「夢」という単語である。
 被験体は、欠落した記憶を「夢」として認識していた。
 彼女は席を立ち、書棚に向かった。
 いくつかの魔術書を見繕い、手早くページを繰る。
 三冊目に取り出した本の中ほどで、手が止まった。
 ――これだ。
 彼女が目を留めたのは、ウンバラ地方のシャーマンに関する調査報告であった。
 その報告によれば、ある数種の薬草を服用して眠りに入ることで、彼らは予知などを行うのだという。
 元々、睡眠状態にある魂は、平常時よりゲートの開きが大きくなる。
 シャーマンたちのように特殊な薬草を用いなくとも、予知夢や忘れていたはずの物事を夢に見たりという現象はそう珍しいことではない。これらは、睡眠中に開いたゲートにより、魂が無意識のうちにアカシックレコードに接続することによって引き起こされるのである。
 無論、それはあくまで偶然によって起きる現象である。
 彼らがその偶然をある程度まで恣意的に起こさせることができるのは、何故か。
 答えは簡単だ。彼らが用いる薬草には、ゲートをさらに大きく開かせる成分が含まれているに違いない。
 この成分を抽出し、被験体に投与すれば――
 真理にまで到達する必要はないし、またそれほどに大きなゲートを作り出すのは不可能だろうが、自己の記憶を読み取るくらいにはゲートを開かせることができるかもしれない。
 ペンを走らせ、薬草の名称と、必要になるであろう機材を書き出していく。
 その手が止まり、ほう、と大きく息を吐いて、司祭は本を閉じた。
 道筋は見えた。
 あとは、それを辿るだけである。
 司祭は手にしていた本をそっと机の上に置いた。
 視線が流れ、机の片隅で止まった。
「――今の私を見たら、あなたは何て言うのかしらね」
 そう呟いて、司祭は静かに笑った。
 まるで泣き顔のような、胸を締め付ける悲痛な微笑みであった。
 ここに至るまでの様々な記憶が、走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。
 果てしなく長い時間であったが、過ぎてみれば一瞬のようにも思われた。
 その間に、あらゆるものを失った。
 共に研究を重ねてきた仲間たちから孤立し、師と呼んだ者を裏切った。
 協会からは異端者として追われ、無数の名も知らぬ人々の命を奪った。
 自らの命さえも。
 司祭はそっと胸に手をあてた。
 冷たい肌は、何の鼓動も伝えてはこない。
 当然だ。この体は、とうに骸になっているのだから。
 この身を流れるのは、赤い血潮ではなく、漆黒の魔力。
 かつて優しく降り注いだ陽光は、いまや肉体を蝕む灼熱の業火でしかない。
 神の与えたもうた命に背を向け、不死者として暗黒の生を選んだのである。
 裏切りは、闇に堕した後も続いた。
 偽りの忠誠を誓ってダークロードに近づき、その魔術を観察し、その技術を盗み続けた。
 実験のために、数多の罪のない命を弄んだ。
 司祭は、自らの手を見た。
 蝋細工のように、白くなめらかな手。
 だが、この手は汚れている。
 夥しい血に。許されることのない裏切りに。数え切れない死に。
 それでも――
 司祭はゆっくりと手を伸ばした。
 司祭の指先が、机の上に置かれた小さな肖像画に触れた。
 ああ。
 どんなに汚れた手でもいい。どれだけ罵られても構わない。この世界の全てを敵に回しても、あなたに逢いたい。もう一度あなたに触れて、あなたのぬくもりを感じ、あなたと、あなたの感じる全てを抱きしめたい。
 ああ――
 肖像画の中から、一人の少女が優しく微笑みながら司祭を見つめていた。
「ルーミア……」
 司祭が呟いた声は、闇に溶けるように消えていった。


  2/千年前


 むせ返るような臭いが、周囲に充満していた。
 空気がその粘性を増したかのように、ねっとりと肌に絡みつく。その中に、生臭いような、錆びた鉄のような、生理的嫌悪を催す臭いが濃密に溶け込んでいる。
 血臭である。
 それも、人間のだ。
 息を吸い込むと、胃の中身が逆流しそうになる。息を止めていても、その臭いは皮膚から体中に染み込んでくる。
 まるで、死者の呪詛が臭気となって、周囲に立ち込めているようであった。
 臭いはもう一つあった。
 何かが焼ける臭い。
 一つではない。様々なものが焼ける臭いが、複雑に混ざり合っている。
 木材、城壁、植物、布、金属、書物――
 そして、肉が焼ける臭い。
 吐き気を催すようなその臭いが何であるか、俺は知っている。
 目の前で蠢く、炎に包まれた黒い影。
 滑稽なダンスを踊っているかのように、のたうち、這いずり回り、手を伸ばすその影。
 そう、この臭いは、人が生きたまま焼かれてゆく臭いだ。
「う…あ……」
 炎に包まれた男は、俺に気づいたようであった。焼け爛れた顔の中に、苦痛と哀願の表情が浮かんだ。
 何かを求めるように、男の手が伸びた。震える手であった。
 頬の肉は焼け落ち、白骨が覗いている。そこから、ひゅうひゅうと空気を漏らしながら、男の口が動いた。
 もはや声にならない声で、男が何かを言った。
「助けて、くれ……」
 それだけが、かろうじて聞き取れた。
 男が、前のめりに倒れた。
 それきり、動かなくなった。
「――――」
 俺は目を閉じた。正式な弔いをしてやることはできないが、せめて黙祷くらいは捧げてやりたかった。
 ついさっきまで共に戦っていた仲間である。
 だが今こうして、こいつは死に、俺は生き残った。そこには何の理由もない。ただ、死神のきまぐれがこいつを選び、俺は選ばれなかったというだけだ。
 それを運命というなら、運命とは何と理不尽なものなのか。
 ぎり、
 と、奥歯が軋んだ。
 訳の分からない感情が怒涛のように押し寄せてきて、それを全身の力を振り絞って押さえている。
 死んだ仲間に対する哀悼の念なのか。
 仲間を救えなかったことの後悔なのか。
 それとも、理不尽な運命への憤怒なのか。
 分からなかった。
 分からないが、その全てを、俺は深く胸に刻み込んだ。それが、生き残った人間の義務だと思ったからであった。
 俺は目を開けた。ゆっくりと歩き出す。
 足元に転がる無数の屍体を踏みつけないよう、気をつけて歩いていく。
 いくらか進んだ時、ふと声が聞こえた気がして、足を止めた。
「――誰だ?」
 返事はなかった。
 付近に目をやる。
 足元には、無数の人間が折り重なるようにして倒れている。
 もしかしたら、その中にまだ生存者がいるのかもしれない。
「おい、誰かいるのか?」
 もう一度、今度は大声で叫んだ。
「あ……」
 今度ははっきりと聞こえた。
 ――あそこか。
 俺は駆け寄り、倒れていた男の体を抱き起こした。
「あ……ぐ……」
「おい――」
 大丈夫か、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 男の腹部が引き裂かれ、内臓がはみ出している。
 聞くまでもない。もう、助かる見込みはないだろう。
「誰かいる……のか? もう、目も見えねえ……」
 男が、絶え絶えに言った。
「ああ、ここにいる」
 俺は男の手を強く握り締めた。ぬるりと血の感触がした。男の血に濡れたその手は、血の色とは正反対に青白く、驚くほど冷たかった。
「苦しい……んだ、頼む……」
 俺は頷き、男の体をそっと横たえた。
「もう苦しまなくていい。今、楽にしてやる」
 立ち上がり、腰の剣を抜く。
「すまねえ……ありがと……よ……」
 男は、微かに笑ったようであった。
 俺は狙いを男の首に定め、ゆっくりと剣を振り上げた。
 目を閉じ、柄を握る手に力を込める。
 振り下ろす。
 肉を断ち切る嫌な感触が、手に残った。
 剣に絡んだ血を払いながら、隊の仲間たちのことを思った。
 ジミー、ショーン、ヘザー……
 みんないい奴だった。みんな死んでしまった。
 顔を上げた時、ふと城が目に入った。
 思わず、その美しさに心を奪われそうになる。
 皮肉なものだ。
 地上の楽園を夢見て造られたこの城は、今や紛れもない地獄そのものであった。



 ここは、グラストヘイム――
 ミッドガルド大陸の北西、西方にミョルニル山脈を望む台地に造られた、巨大城塞都市である。
 ゲフェニア王国と並ぶ栄華を誇るグラストヘイム神国が、その技術と文明の粋を集めて造った都市である。洗練された建築物と、豊かな緑。自然と人間の調和を主題に構成された街並みは、それ自体が巨大な一つの芸術品とでも言うべきものであった。
 その中でも、ひときわ人々の目を引く建物が、市街の中心に位置するグラストヘイム城である。
 煌びやかな美しさの中にも荘厳な重厚さを感じさせる、匠の妙を尽くした造形。周りを囲む美しい庭園には鳥たちの歌声が響き、澄んだ水を湛えた池を優雅に泳ぐ色とりどりの魚たちが人々の目を楽しませる。
 陽の光を浴びて白亜に輝くその姿に、人々はいつしか尊敬と憧れの念を込めてこう呼ぶようになった。――神々の住まう城、と。
 グラストヘイムが誇るのは、その美しさだけではない。
 地下には世界初となる上下水道も整備されており、潤沢な水資源と衛生的な暮らしを人々にもたらしている。
 街の各地に点在する公的施設――修道院や騎士団兵舎、図書館などは、有事の際には砦として用いることができるよう堅牢に造られており、それらを繋ぐ回廊は、同時に城壁としての役割も果たすよう計算されている。
 庭園の中に作られた池は、街に潤いをもたらすと同時に、堀としての機能も持つ。
 そして、街全体をぐるりと取り囲む、高く堅牢な城壁。
 グラストヘイムは、世界で最も先進的な文化を持つ街であるとともに、世界で最も強固な城でもあったのである。
 そこに住まう誰もが、安心で、豊かな暮らしを営める街。
 地上の楽園と呼ばれるに相応しい都市が、ここにあった。
 だが、その面影は、もはやどこにもない。
 鳥たちの歌声は消え、代わりに人々の阿鼻叫喚が満ちた。
 絶え間なく響き渡る剣戟に、誰かの悲鳴と戦士たちの怒号が混ざり合う。
 庭園を彩るのは可憐な花々ではなく、血と炎の紅であった。
 濃密な血の臭いと、焦げ臭い臭い。
 見渡せば、無数の屍体があちこちに転がっている。
 まともな姿形をしているもののほうが稀であった。
 手足のないもの、首のないもの、割けた腹部から臓腑をぶちまけているもの――
 だが、屍体が残るだけまだましな方であった。
 魔物どもに生きながらにして喰われ、骨さえ残らぬものもいるのだ。
 グラストヘイムを襲った未曾有の危機。いや、危機というならば、全人類が今まさに運命の分岐点に立たされていた。
 すなわち、滅びか、否か。
 突如始まった、ダークロード率いる魔族の侵攻――
 魔族。
 人ならぬ姿を持ち、人を超えた力を持つ、人にあらざる存在。
 そして、魔族が住まう、恐怖と暴力が支配する常闇の世界――魔界。
 グラーナ教の聖書の第一章、創世記には、こう記されている。
 地上と魔界とは、かつて一つの同じ世界であった。
 人と魔族との争いが絶えぬことに心を痛めた神々が、その力をもって世界を二つに分け、人には地上を、魔族には魔界を与えたのだという。
 以来、二つの世界を結ぶ門には厳重な結界が幾重にも施され、低級な魔族以外はその往来を禁じられていたはずであった。
 何故突然魔族の侵攻が始まったのか?
 これについては、学者たちが様々な意見を交わし論争を繰り広げているが、未だ結論は出ていない。
 だが、理由など最早どうでもよかった。
 今人類に必要な答えは、何故魔族が攻めてきたのかではなく、どうやって魔族を退けるかであった。
 強大な魔族に対抗しうる力を持つ国など、そうは存在しない。
 人類の存亡を賭けた戦い――その先頭に立ったのは、高度な魔法文明を持つゲフェニア王国と、屈強な騎士団を擁する、ここ、グラストヘイム神国であった。
 戦いは苛烈を極めた。
 予想だにせぬ突然の侵攻に、一時は反撃も侭ならぬまま圧倒された人類側であったが、戦いの中で徐々に反撃態勢を整えていくことになる。その最たるものが、グラストヘイム王宮騎士団とゲフェニア魔術師団の同盟締結であった。
 強靭な肉体と底知れぬ魔力。その両方を兼ね備えた魔族に対し、剣だけ、あるいは魔法だけで対抗するには、人間はあまりに非力すぎた。
 無論、過去に魔族との戦闘が皆無だったわけではない。
 しかし、魔族が結界を越えてくるということ自体がごく稀にしか起き得ない出来事であり、またその数も僅かであったため、個々の能力差を兵力で補うことによって撃退に成功してきたのである。
 だが今回の戦において、数で勝っているのはむしろ魔族側の方であった。
 無類の武勇を誇るグラストヘイム王宮騎士団と、強大な魔法を駆使するゲフェニア魔術師団。両軍が結束して初めて、人は魔族と互角に戦いうる力を手にしたのである。
 一致団結し徹底抗戦の構えを取った人類に対し、魔族側もその圧倒的な数を背景に、侵攻の手を緩めることなく戦い続けた。
 拮抗する両勢力の中にあって特に際立ったのは、やはりそれぞれの軍を率いる将の存在であった。
 魔族軍を率いるのは、魔界貴族ダークロード。
 その圧倒的な魔力は、強大な魔族軍の中でも最大の脅威であった。
 幾千の兵が、ダークロードが一たび詠唱を紡ぐだけで、瞬く間に塵と化してゆく。見るもの全てに滅びをもたらすその絶大な力は、闇の王の名を冠するに相応しいものであった。
 対する人間側も、両団長の勇猛な戦いぶりは抜きん出ていた。
 白銀の鎧を纏い、華麗にして勇剛なその剣技で屈強な魔族どもを次々と屠ってゆくグラストヘイム騎士団団長。
 人類史上最高の魔術師と称され、その底知れぬ魔力はダークロードに匹敵するとさえ言われるゲフェニア魔術師団団長。
 二人が戦う姿は、人類には希望を与え、魔族には絶望をもたらした。
 先の見えぬ戦いに疲れ果て、絶望と恐怖に誰もが屈しそうになる中、彼らの存在が兵たちの心を奮い立たせたのである。
 人か、魔族か。
 地上の覇権を賭けた戦いは、どちらも一歩も譲らぬまま、一進一退を繰り返した。
 戦いが千日手の様相を呈し始めた時、戦況を一気に変える大事件が起きた。
 ゲフェニア魔術師団長の突然の失踪――
 統率者を失ったゲフェニア魔術師団は急速にその力を失い、程なくしてゲフェニアは陥落した。
 片翼を失ったグラストヘイム軍も敗走を重ね、ついには篭城を余儀なくされた。
 グラストヘイム城は、事実上、人類の最後の砦となったのである。
 だが、世界で最も強固な城として知られたグラストヘイム城も、これ程の圧倒的な兵力差の前では、砂上の楼閣に等しかった。
 いよいよ勢いを増した魔族軍は、かつてない大規模な兵力を投入してグラストヘイム城を落としにかかった。
 絶望的な戦いであった。
 押し寄せる津波が、小さな貝殻を飲み込むのに等しい。
 万に一つの勝ち目すらない戦いである。
 グラストヘイム騎士団は魔族軍の猛攻に一度こそ耐えたものの、その代償は大きかった。
 市街の半分が焼け野原と化し、兵力の殆どを失った。
 食料の備蓄もなくなり、武器や魔法具も底をついた。
 それに比べ、魔族側の被害は微々たるものである。一度退いたとはいえ、すぐさま態勢を整え再び猛攻を仕掛けてくるであろうことは、容易に想像できた。
 次が、最後の戦いになる――
 誰もがそれを理解していた。
 大戦の終結。つまり、グラストヘイムの滅亡。
 生き残った僅かのグラストヘイム軍に、もはや抵抗を続ける力は残されていなかったのである。


  3/千年前――2


 踏み出した足が、血溜りに水音を立てた。
 周囲に魔族の姿はない。どうやら、一時の猛攻は凌いだようであった。しかし、被害は甚大であった。俺が所属する第三分隊は、俺を除いて全員が討ち死にした。騎士団全体で見ても、兵の八割は失ったであろう。
 最強を誇ったグラストヘイム騎士団が、こうもたやすく敗北するとは。
 やはり恐るべきは、ダークロードの底知れぬ魔力であった。
 戦いの最中に見た、戦慄の光景を思い出す。
 ぞくりと、背筋が震えた。
 奴が放った火球一つで、何人もの仲間たちが瞬時に灰燼と化した。
 その時の奴の底冷えするような笑顔、同胞の断末魔の絶叫、人が焼けてゆく厭な臭い。
 糞。
 ぎり、と唇を噛み締める。
 震えが止まらない。
 俺は、怯えているのか。
 たった一人の魔族に、恐怖しているというのか。
 これまで、気の遠くなるような修練を重ね、数多の死地を駆け抜けた。
 深い傷を負い、生死の狭間を彷徨ったこともある。
 だが、どんなに凶悪な魔物を相手にした時も、どんなに死の淵に近づいた時も、恐れを感じたことはなかった。
「伝令! 伝令! 生存者は修道院の中へ! 陣を立て直し魔族の襲撃に備えよ!」
 誰かが必死に叫ぶ声が聞こえる。
 ――行かなければ。
 俺は顔を上げた。
 だが、進もうとする足が重い。
 修道院へ向かおうとするが、足が言うことを聞かない。
 全身に、幾重にも重い鎖を巻きつけられたようであった。
 体は傷だらけだ。疲労はもはや限界に達している。睡眠も、まともな食事さえももう何日も摂っていない。できることならこのまま、ここに倒れこんでしまいたい。そうして泥のように眠れるのならば、死んでも構わないとさえ思えてくる。
 残った兵で守りを固めても、果たしてどれだけ持つというのか――
 ふっと、絶望に狂いそうになる。
 戦ってどうなるというのか。
 抵抗したところで、苦しみが長引くだけだ。ならばいっそ、ここで死に果てたほうがどれだけ楽だろうか。
 握った剣がやけに重い。
 幾度となく振るってきたこの刃を、ただ一度己に向けるだけだ。それだけで、楽になれる。
 俺は剣を逆手に握り、じっと刀身を見つめた。
 その時、ふと背後から声をかけられた。
「よう、お前もまだ生き残ってたのか」
 振り返る。
 そこには、よく知った顔があった。物心ついた頃からの友人――いわゆる、幼なじみという奴だ。
 士官学校にも同期で入学し、奴は弓士、俺は剣士と、目指すものこそ違ったが、互いに切磋琢磨した仲である。騎士団に入隊してからは別々の隊に所属していたが、そこでも俺たちは競い合うように武勲を重ねあった。
「お互い、悪運だけは強いみたいだな」
 奴はそう言って、灰に黒く汚れた顔でふふっと笑った。
「――――」
 俺は無言であった。
 奴の軽口に付き合うだけの気力は、俺にはなかった。
「どうした? なんか変だぜ、お前」
 俺の表情から何かを察したのか、奴が訊いた。
 俺は答えなかった。
 そのまま、奴も押し黙った。
 二人の間に、重い沈黙が満ちた。
 先に口を開いたのは、向こうであった。
 奴はすっと顔をあげ、真っ直ぐ前を見つめると、
「俺達がまだ騎士になる前のことを覚えてるか?」
 そう切り出した。
「ああ」
「俺は弓、お前は剣。手にするものは違ってたけどよ――」
「――――」
「俺達、なんで騎士になろうと思ったんだったけかな」
 そう呟いた奴の目は、遠く景色を見ながら、自らの過ぎ去った時間を見つめているかのようであった。
 沈みかけた夕日が、奴の姿を紅に染め上げる。
 ふっとその姿が、遠い記憶と重なり合ったような気がした。
 俺達が騎士を目指した理由――
 あの時見た少女の、風に揺れる紅い髪。
 その背中に重い十字架を背負いながら、それでも真っ直ぐに前だけを見つめていた、あの瞳。
 ああ。
 そうだった。
「あん時ゃ驚いたぜ、お前が突然騎士を目指すって言い出してよ」
 俺の方に向き直りながら、くっくっく、と奴が笑った。
「ちょっと待てよ、先に言い出したのはお前だろ?」
「あれ、そうだったっけか?」
「そうだよ。間違えるなよな」
「まぁ、どっちだっていいじゃねぇか。どっちも今こうして騎士になってんだからよ」
「そうか、そうだな――」
 俺は手にした剣を見た。
 鍔の部分にグラストヘイム神国の紋章が象られている。
 騎士団に入隊した時、今は亡き国王から拝領した剣である。
 ぶん、と頭を振り、柄を強く握り締める。傷だらけの腕が痛み、ぬるりとした血の感触が掌に伝わってきた。
 まだ皮膚の感覚はある。ならば、俺は生きている。生きているなら、戦える。
「行くか」
「おう」
 頷きあって、俺達は走り出した。



 修道院の中には、百人弱の兵士が集まっていた。
 もう日は完全に沈み、外には夜の闇が広がっている。建物の中も、かろうじて見通せる程の最低限の灯りしかない。
「ちっ――、生き残ったのはこれだけかよ」
 ゆっくりと陣の中央に向かって歩きながら、弓の奴が苦々しげに呟いた。
「そうらしいな」
 想像以上に、今回の戦いの戦死者は多いようであった。
 例え生き残った兵であっても、負傷した者や疲労が限界に達している者も多い。実質的に戦力となり得るのは、さらに少ない数になるであろう。
「ここに居る奴らにしても、まともに戦えるようには見えねぇぜ」
 奴も俺と同じことを考えていたようであった。
「ああ。といっても、普通の手当てじゃ次の戦いに間に合わない。お前は法術の心得はあるか?」
「いや、さっぱりだ」
「そうか。――誰か、治癒法術を使える奴はいないか!」
 俺が大声で呼びかけると、一人の若い法兵がおずおずと歩み出てきた。
「あの、僕が……」
 顔色が悪い。まだ経験が浅いのだろう、これほどの厳しい戦場を目の当たりにしたことがなかったに違いない。
「すまない、怪我人の治療を頼みたい」
「は、はい。分かりました」
 法兵はこくこくと頷き、印を結んだ。
 ぽう、
 と、闇の中に光が灯った。
 その光に、集まった兵士たちの姿が浮かび上がる。
 どの顔にも疲労の色が濃い。纏った鎧はぼろぼろで、手にしている剣も刃こぼれが酷い。
 負傷の状態を確認した法兵が、ゆっくりと詠唱を紡ぎ始めた。
 みなの足元に光の魔方陣が浮かび上がり、柔らかな輝きが満ちてゆく。
 俺は、ぐっと拳を握り締めた。
 疲れ果てていた肉体に、僅かながら、力が戻ったようであった。
「ありがてえ、これでまた戦える」
 兵の一人が言った。
「で、でも……」
 法兵が困ったような声で呟いた。
「どうした?」
 俺が訊ねると、法兵は手を差し出した。
 掌の上に、粉々に砕けた水晶の破片が乗っていた。
「今のが、最後の一つだったんです」
 その意味を察し、みなの表情が翳った。
 魔術学を学んだことの無い俺でも、その水晶の名と役目は知っている。
 ブルージェムストーン――
 魔法とは、自然界の摂理を己の魔力で無理矢理に曲げるものである。そのため、どんな魔法であろうとも、少なからず「歪み」というものが生じる。
 その「歪み」は反動として術者に返ってくるのであるが、高度な魔法であればあるほど、その反動も大きくなってしまう。
 その際に術者の身代わりとして反動を受け止めるのが、魔力を帯びたこの青い水晶――ブルージェムストーンなのである。
 それが無くなったということは、もう魔法による支援は当てにならないということだ。反動の少ない小威力の魔法ならば行使できるだろうが、その程度ではさしたる効果も望めないだろう。ここから先は、己の肉体のみで戦い抜かなければならない。
「あの方がいてくれたら……」
 誰かが、ぽつりと呟いた。
 言ってから、はっと息を呑むのが分かった。
 そのまま、居並んだ全員の表情が、深く沈む。
 薄闇の中、重い沈黙が満ちた。
 誰もが無言であった。
 何も言わずとも、皆が同じことを考えているだろうことは容易に想像できた。
 あの方――、つまり我々グラストヘイム騎士団の団長のことである。
 その華麗かつ勇猛な戦いぶりで常に我らを勝利へと導いてきた騎士団長であるが、ゲフェニア魔術師団長失踪の報が届いてから間もなく、騎士団長もまた姿を消してしまったのである。
 指導者を失った騎士団の動揺は大きかった。
 団長自らゲフェニア魔術師団長の捜索と救助に向かったのだという通達があったものの、兵士たちに広がった不安を払拭することはできなかった。
 もしかしたら、既に団長は魔族の手によって暗殺されてしまったのではないか――
 口にこそ出さないが、誰もがその疑念を抱いていた。
 疑念は恐れを生み、恐れは剣を鈍らせる。
 先の戦いであれほどの大敗を喫したのも、最大の原因は兵の士気の低下であった。
 そして、恐らく最後となるであろう決戦を前にした今も、団長の行方は杳として知れぬままであった。
 やはり、団長はもう生きてはいないのか――
 痛いほどの静寂の中、皆が抱える不安がひしひしと伝わってくる。
「――いや、違う」
 沈黙を破ったのは、俺であった。
「あの方がいないからこそ、ここで俺達が踏ん張らなくてはいけないんだ」
 俺はきっぱりと言った。
「でもよ……」
「でもも何もねぇよ。あの方はきっと帰って来る。俺達がそれを信じなくてどうするんだ」
 そう言ったのは、弓の奴であった。
 兵の一人が、顔を上げた。
「そうだな――、あの方は必ず帰って来る」
「お前の言う通りだ。今まで俺達は団長におんぶに抱っこだったからな。ここで団長に恩返ししなきゃあ、いつするっていうんだ」
 一人、また一人と、顔をあげていく。彼らの顔には迷いはもう無かった。代わりに、毅然たる決意が浮かんでいた。
「あの方はきっと帰って来る。それまで、俺達がこの城を守るんだ」
 皆が一斉に頷いた。
 髭面の騎士が、俺のほうを見て言った。
「もうまともに機能している部隊はねえし、残った兵はここにいるこれだけだ。今後の指揮はあんたに任せていいか?」
 俺は無言で頷いた。
 弓の奴が、にやりと笑みを浮かべながら、ぽんと俺の肩を叩いた。
「頼むぜ、大将」
「お前もな」
 俺達は腕を上げると、顔のあたりの高さでお互いの拳を重ねあった。
 気がつくと、俺を中心にして人の輪ができていた。
 俺は、一人一人の顔を記憶に刻み込むように、ゆっくりと周囲を見渡した。どの顔も血と泥と灰に汚れているが、みんないい顔つきをしていた。
 俺は腰の剣を抜いた。
 それに倣うように、居合わせた皆もそれぞれの剣を抜いた。魔術師や法兵は己の愛用する杖を手にし、弓兵は自らの弓を握り締めた。
「我がグラストヘイムの誇りと、人類の未来のために」
 俺は剣を頭上高く掲げた。
 ステンドグラスの割れた部分から白々と差し込む月光を受けて、刃が青白く煌く。
 一人、また一人と、それぞれの剣の切っ先を俺の剣に重ねてゆく。
 金属の触れ合う澄んだ音が、室内に響いた。
 その時、外を見張っていた兵士の悲鳴にも似た声が聞こえた。
「来ました! 凄まじい数です!」
 俺はぐっと拳を握り締めた。
「来たか、魔族どもめ――」
 静かな、それでいて灼熱の青い炎が、己の裡に燃えていた。
 俺は大きく息を吸い込み、叫んだ。
「戦闘準備! 奴らを生きて帰すな!」
「応!」
 全員の声が重なり合い、修道院を揺るがした。
 扉のほうで、鈍い爆発音が響いた。



「おぉおおおッ!」
 絶叫とも悲鳴ともつかぬ叫び声と共に、髭面の騎士が魔物の群れに斬り込んでいった。
 水平になぎ払う鋼の刃が、青い血飛沫を飛び散らせる。
 続いて、数人の騎士が踊り込む。刃が煌き、魔物の絶叫がこだました。
「よし、お前から向こうの兵は地下墓地側の守りを固めろ!弓兵は後方から援護射撃!残りは全員で正門を死守せよ!」
 叫んで、俺も駆け出す。
 握った剣の重みが、今は力強い。
 ガーゴイルの放つ矢を弾き返しながら、間合いを詰める。
 敵の数はどれほどだろうか。
 一千?
 一万?
 もっと多いかもしれない。
 対するこちらの兵力は、せいぜい百人――
 絶望的な戦力差である。
 囲まれれば、その時に戦いは終わる。
 地の利を生かす他に、俺達が生き残る術はない。
 幸い、この修道院の造りは非常に強固であった。外部から侵入できるのは、正門と左手にある地下墓地に通じる小さな門だけである。
 そこさえ守り切れば、勝機がある。
「半円状に陣を組め!奥への侵入を許すな!」
 いくら敵の総数が多いとて、一度に門をくぐってこられる数には限りがある。
 乱戦となれば、数で劣るこちらが圧倒的に不利である。それを避け、侵入してきた魔族を取り囲む形で確実に斃していく。
 作戦と呼べるようなものではない。
 だが、それが俺達にできる唯一の抵抗であった。
「はっ!」
 剣を一閃する。確かな手応えがあった。眼前の魔物が両断され、夥しい血があふれ出す。
 戦闘が始まって、どれほど経ったであろうか。
 これまでに斬った敵の数ももはやわからない。
 息はとっくの昔に上がりきっている。周りの皆も、肩が大きく上下している。
「ちっ――」
 ぐっと剣を握り締める。手のひらが血でぬめっている。己の血か、それとも返り血だろうか。どちらでもよかった。まだ死んでいないのなら、戦うだけだ。
 気合を振り絞るように絶叫しながら、前方の魔物を袈裟懸けに両断する。
 その刹那、背後でばさりという羽音が聞こえた。
 しまった――
 疲労で集中力が落ちていたのか。
 振り返った俺の目の前には、有翼型魔族の禍々しい爪が視界一杯に広がっていた。
 避けるのも受けるのも間に合わないタイミングであった。
 だが、その爪が俺の肉体を抉ることはなかった。
 鋭い先端が俺に触れようとした瞬間、魔族は失速し、力なく地面に墜落した。
 その胴を、一本の矢が貫いていた。
 後ろの方にいた弓の奴が、親指を立てながらにやりと笑った。
 俺も頷きを返す。
「ありがとう、助かった」
「いいってことよ。――それより前を見ろ、次が来るぞ!」
 俺は振り向きざまに剣をなぎ払った。
 耳障りな絶叫と共に、魔族の青い血が迸る。
 その血飛沫の向こうから、また新たな敵が襲い掛かってくる。
 俺達のささやかな抵抗をあざ笑うように、敵は後から後から湧いて出てくる。
 天から零れ落ちる雨垂れを切り払っているようなものであった。
 糞――!
 断ち切り、両断し、突き刺し、抉る。
 血が飛び散る。誰の血だ?俺か、魔族どもか、それとも仲間の誰かなのか。だがそれを考えている暇はなかった。
 敵の数は減った気配さえない。もしかしたら、俺達は終わりのない戦いをしているのではないかとさえ思えてくる。
 糞、糞、糞!
 叫び声が聞こえる。
 俺は、自分が喉が引き攣れるほどの絶叫を発していることに気がついた。
 言葉ではない。
 獣の咆哮であった。
 肺の中身を絞りだすように、ただ叫ぶ。
 叫びながら、剣を振るう。
 脂肪と血がべっとりと絡みついた刃は、既にその切れ味を失っていた。
 咆哮と共に己の裡から噴出してくる何かを、刃に乗せて叩きつける。
 斬るというより、殴るといったほうが近い。
 もはや、習い覚えた剣技などは何の意味もなかった。
 ただ己が生きるために、目の前の敵を打ち倒す。
 そんな戦いが、どれほど続いたであろうか。
 突然、凄まじい業火が俺のすぐ側を疾り抜けた。
 数人の同胞と、数多の魔族が瞬時にして灰になる。
「なっ――!?」
 俺は顔を上げた。
 そのまま、俺は凍りついたように動けなくなった。
 目の前に、巨大な影がそびえていた。
 夜の闇よりなお深い暗黒が、そこにあった。
「なかなかやるではないか、人間の騎士たちよ」
 そいつが嗤った。
 ぞっとするような笑みであった。
「ダークロード……」
 俺は、その名を呟くのが精一杯であった。
 一歩踏み出せば刃の届く距離だというのに、足が動こうとしない。
 剣を握る手が震えていた。
 いや、手だけではない。体中が震えていた。
 竦んでいた。
 ただそこに佇んでいるだけだというのに、ダークロードの発する圧力のようなものに押し潰されそうになる。
 力の強弱というレベルではない。
 存在としての次元が違うのである。
 今、俺の目の前にいるのは、一人の魔族ではなかった。
 闇という概念そのものが、形を持って現れたかのようであった。
「どうした、戦わぬのか?」
 ダークロードが囁いた。
 まるで閨の中で交わす睦言のように、甘く密やかな声であった。心の隙間に潜り込んでくるようなその声に、思わず背筋が凍った。
「う……あ……」
 恐怖がじわじわと体を支配していく。
 もはや、剣を握っているだけで精一杯であった。
「ふむ、所詮は人間か。ならばこのまま死ぬがいい」
 ダークロードが腕を持ち上げた。
 ぽう、とその掌中から炎が立ち上った。
「さらばだ、名も知らぬ騎士よ。塵一つ残さず消えるが良かろう」
「――――ッ!」
 俺がぐっと目を閉じたその刹那、
「む――」
 ダークロードが、空を見上げた。
 門の外――無数の魔族たちがひしめくその上空を、一条の流星が煌いて流れていった。
 いや、それは流星ではなかった。
 恐る恐る目を開けた俺は、確かに光の中、白馬に跨り天を駆ける騎士の姿を見ていた。
 光は、グラストヘイム城のどこかに吸い込まれるように消えていった。
 あの方角は、騎士団兵舎のほうだ。
「くく――」
 不気味な笑い声に、俺はダークロードの方に向き直った。
 ダークロードの唇が、にい、と持ち上がった。
「面白い。あやつが戻ってきたか――!」
 ダークロードは掌の炎を握りつぶした。
 次の瞬間、ダークロードの体がふわりと舞い上がった。
「我は行く。こやつらはお前たちで始末しておけ」
 地上の魔族どもにそう命じると、ダークロードの体は黒い流星と化して、先程の光を追いかけるように空へ飛び立った。
「ま、待て――」
 追いかけようとした俺の背中を、誰かがぐいと引っ張った。
 弓の奴であった。
「何をする! あの方が戻ってきたのだ、俺達も追いかけねば……」
「馬鹿野郎、死にてぇのか!? 外は無数の魔族がいるってのを忘れたのかよ!」
「あ――」
「ほら、ぼうっとしてねぇでお前も戦え! 突破されるぞ!」
 叫びながら、弓の奴は素早く矢を連射していく。他の騎士たちも、必死で戦っている最中であった。
「くっ!」
 俺は、ぎり、と歯を食いしばり、剣を握り直した。
 その時、誰かの声が俺を呼び止めた。
「大丈夫です。ここは僕が食い止めますから、みなさんはあの方のところへ。内部の通路を辿っていけば、安全に騎士団へ行けるはずです」
 声の主は、先程兵の治療に当たった若い法兵であった。
「食い止めるって、お前――」
 どうやって、と言いかけたところで、俺は言葉を失った。
 法兵の左腕が、脇腹を押さえていた。指の間から、どくどくと赤い液体が溢れ出てきている。かなり深い傷のようであった。
「僕はもう助かりません。だから、みなさんだけでも……」
 顔色は蒼白で、声も苦しそうであった。
「馬鹿、諦めるな!」
 その時、左手のほうで鈍い爆発音が響いた。
 続いて、大量の魔族がなだれ込んでくる足音。
 どうやら左方の守りが破られたようであった。このままここに留まったとしても、挟み撃ちにされてしまうだろう。そうなれば、全滅は必至だ。
「ちっ――」
 俺は唇を噛んだ。
「さあ、早く!」
 法兵が叫んだ。悲痛な声であった。
「撤退だ!退けっ!全員騎士団へ向かうんだ!」
 俺はそう叫ぶと、修道院右手奥にある通路に向かって走り出した。
 生き残った兵たちが、一斉に同じように走り出す。
 その中で、法兵だけが一人その場に立ち尽くしたままであった。
 その唇が、何かの詠唱を静かに、しかし確実に紡いでいく。
 俺はふと立ち止まり、後ろを振り返った。
 遠くで法兵が顔をあげた。眼が合った。様々な感情の入り混じった、不思議な眼をしていた。生涯忘れることのできないような眼であった。
 俺は法兵に最後の敬礼をし、再び走り出した。


 取り残された法兵の肉体を、魔族どもの鋭い爪や牙、強靭な拳、灼熱の炎が、次々と抉っていく。
 その全てを避ける素振りもなく受け、法兵は突っ伏すように地面に崩れ落ちた。
 その上を、もはや彼の存在など眼中にないかのように、無数の魔族が蹂躙していく。
 腕が潰れ、足が砕けた。冷たい石床に、彼の体を中心として紅い円が広がっていく。
 ぼろ雑巾のようになりながら、それでも彼は詠唱を止めようとはしなかった。
 仲間たちはみな通路に逃げ込んだようであった。魔族どもが扉をぶち破ろうと激しく体当たりする音が聞こえた。
 いかに頑丈な鋼鉄の扉であっても、屈強な魔族どもの手にかかればすぐさま破壊されてしまうだろう。だが、彼にはその僅かの時さえあれば充分であった。
 あとは、最後の詠唱を紡ぐだけだ。
 すぅ、
 と息を吸い込む。
「マグヌス――」
 どん、と魔族の足が彼の胸を踏みつけた。
 潰れた肺から血液が逆流し、口から溢れ出す。
 ごぼ、と大量の血液を吐き出しながら、
「――エクソシズム!」
 叫んだ。
 声と共に、地面から眩しく輝く十字の魔方陣が浮かび上がる。
 おぞましい絶叫が、建物内に満ちた。
 マグヌスエクソシズム――、法兵が用いる、最大級の退魔法術。
 闇に属するものどもの存在を否定する、聖なる結界である。
 耳を覆いたくなるような断末魔の絶叫と共に、魔族たちの姿が光に溶けてゆく。
 光が消えた時、修道院内を埋め尽くしていた無数の魔族どもは、一匹残らず消滅していた。
 凄まじい威力であった。
 同じ法術を扱える術者でも、これほどの絶大なる効力は得られないであろう。
 それも当然であった。
 元々、最高度の威力を持つこの術は、それにより生じる反動もまた非常に強烈である。
 通常ならばその反動はブルージェムストーンが受け止めるため、術者は安全に術を行使できるのだが、それは同時にリミッターとしての側面も持つ。
 つまり、ブルージェムストーンが受け止めきることができる範囲まででしか結界を展開することができないのである。
 ならば、ブルージェムストーンを持たずにマグヌスを発動させればどうなるのか――
 ぴし、
 と、法兵の体に亀裂が走った。
 石膏の像が砕けるように、体中に亀裂が広がってゆく。
 際限なく術の威力を引き出した結果が、これであった。
 法兵の右手が、何かを掴もうとするように持ち上がった。
 その腕が根元から砕け、乾いた音を立てて破片が床に落ちた。
 散らばった破片は瞬く間に粉々になり、跡形もなく消えていく。
 因果律に生じた歪みを復元しようとする力が、彼の存在そのものを世界から消し去ろうとしているのである。
 輪廻からさえ否定される、死よりもなお絶対的な終末。
 腕の次は脚が、その次は腹部が、次々と消滅していく。
 それでも、法兵はどこか満足そうな笑みを浮かべていた。
 ぱきん、とその顔が砕けた。
 後にはただ、冷たい虚空が広がっているばかりであった。


  4/現在


 闇の中を、走っている。
 体のあちこちが酷く痛む。
 骨が軋む。
 肉が悲鳴をあげる。
 どれだけ息を吸い込んでも足りない。
 肺が焼け付く。
 体は、火のように熱い気もするし、氷のように冷たいような気もする。
 心臓の音がやけに大きく聞こえる。
 ぞっとするほどの静寂の中、破裂しそうなほどに激しい鼓動が、頭に響いてくる。
 これなら、止まった時すぐ分かるだろう――そんなことを思う。
 とりあえず今は動いているようだ。ならば俺は走り続けなければならない。
 何も見えない。
 だが、手探りではない。全速力で駆けている。
 行かなければ。
 ただその思いだけが、俺を突き動かしている。
 闇への恐怖がないわけではない。
 だが、その恐怖を必死に跳ね除けている。
 行かなければ。
 俺は行かなければならない。
 それだけが、呪文のように俺の中で繰り返される。
 走れ。
 走れ。
 行かなければならない。
 俺は、行かなければならない。
 ただひたすらに、それだけを念じ続ける。まるで唯一つの命綱を握り締めるように、強く、強く、己の全てを籠めて。
 それでも、闇はじわじわと俺の心を侵食してくる。
 まるで柔らかな絹に黒いインクの雫を垂らしたように、ゆっくりと、静かに、しかし確実に、闇が浸透してくる。
 闇が言う。
 ――どこへ行く?
 闇が告げる。
 ――お前は、どこへ行こうというのだ?
 闇が語る。
 ――無駄なことを。そのまま静かに眠ってしまえば、苦しまずに済むというのに。
 堪え切れず、俺は叫んだ。
「やめろ!」
 声になったのかどうかは分からない。叫ぼうと思っただけかもしれない。
 ざわ、
 と、闇が嗤った。
 ――我の声に応えたな、名も無き騎士よ。
 しまった、と思った時にはもう遅かった。
 俺は立ち止まった。俺の意思がそうさせたのではない。
 足が動かなくなっていたのである。
 前へ進まなければと思うのに、体が自分の言うことを聞かない。
 俺の心と、俺の体を繋ぐ何かが、ぷっつりと断ち切られてしまったかのようであった。
 俺の中に、何かが入り込んできた。
 冷たい。ぞっとするほど冷たい何かだ。
 ああ――
 足の力が抜けていき、俺は地面に膝をついた。
 ここまでなのか。
 所詮、これが俺の限界なのか。
 俺は、俺の中に入り込んできたものの正体を悟っていた。
 これは、絶望だ。
 絶望という名の闇だ。
 それが、俺の中に広がっていく。
 闇が俺を喰らい尽くしていく。
 俺の肉体、俺の精神が、闇の中に溶けていく。
 俺という存在が全て闇に消えそうになったその時、ふと誰かの声が聞こえた。
「馬鹿野郎、ぼさっとしてねぇでさっさと行くぞ。あの方が俺達を待っているんだ」
 ああ。
 俺は頷いた。
 ああ、そうだったな――
 俺は立ち上がった。
「行こうぜ、相棒。あの方の所へ」
 遠く闇の向こうに、光が見えた気がした。
 俺は、ゆっくりと眼を開けた。


「おはようございます。よく眠れましたか?」
 もう耳に馴染んだ優しい声が、まだぼんやりとしたままのレイドリックの中にゆっくりと染み込んでくる。
 頭上の窓から差し込む陽光が、ちょうど顔のところに降り注いでいた。その眩しさに、レイドリックは思わず眼を細めた。
「ああ――おはよう」
 レイドリックは体を起こし、ふと不快そうな顔をした。寝巻きの生地がべっとりと体に張り付いていた。眠っている間にかなり汗をかいたらしい。
 傍らでは、赤の司祭がにこやかな微笑みを浮かべてレイドリックを見つめていた。
 手に銀の盆を持っている。いつもなら朝食が載せられているその盆に、今日は何かの液体を満たしたグラスと、水差しが置かれていた。
「今日はどんな夢を見ましたか?」
 司祭は盆を机の上に置きながら、いつもと同じ質問をしてきた。
 レイドリックは首を振った。
「すまない、思い出せない」
 この答えも、いつもと同じであった。
「そうですか」
 司祭は特に何の感慨もなさそうにそう言うと、「今日は、これを飲んでみてください」と盆の上にあったグラスを差し出した。
 レイドリックは腕を伸ばし、司祭が差し出したグラスを手に取った。
 澄んだ液体が、グラスを満たしている。
 不思議な色合いの液体であった。光の具合によって、赤にも青にも見える。
「これは?」
 グラスを窓の光に透かしながら、レイドリックが訊ねた。
「薬です」
 微笑みながら、司祭が答える。
「何の薬だ?」
 司祭は答えなかった。レイドリックもそれ以上問おうとはしなかった。司祭に答える意思のないことを知っているからである。
 あれから、一週間が経っていた。
 その間、ずっとベッドに寝かされたままである。
 ぼんやりと天井を見つめながら、色々なことを考えた。
 ここはどこか?
 俺は何故ここにいるのか?
 俺はどんな人間であったのか?
 分からないことばかりであった。
 レイドリックは司祭に様々な質問をしたが、司祭は何も教えてはくれなかった。
 記憶が戻れば、いずれ分かることです――。それが、司祭の答えであった。
 自分でも色々と情報を得ようとしてみたが、無駄だった。
 目に映るのは、室内の様子だけである。ベッドと机だけしかない、殺風景な部屋であった。窓はあったが、手を伸ばしても届かないような高い所にあるため、外の景色を見ることはできなかった。
 一度、外出したいと司祭に言ったことがあるが、許可してもらえなかった。「体がよくなるまで、大人しく寝ていないといけません」ということであった。
 あなたは重い病気だったのですから――司祭はそう言っていた。
 自分としては、もう充分に健康なつもりである。
 最初の頃は体を動かそうとするたびに節々に鋭い痛みが走ったが、それはもうなくなっていた。食欲もある。ベッドから降りて室内を歩き回ることもできる。少し激しい運動をしてみたが、体力が落ちているということもなさそうであった。
 なのに、何故外に出てはいけないのか――
 何度か、司祭がいない時に、部屋を抜け出そうとしたこともある。だが、扉は厳重に施錠されており、外に出ることはできなかった。
 閉じ込められているのかもしれない、と感じたこともある。
 だが、自分では分からないだけで、やはりまだどこか体が悪いのかもしれない。
 司祭の様子には、悪意があるようには見えなかった。
 食事もきちんと与えてくれるし、着替えやシーツの取替えなど、細かな気配りの行き届いた看病をしてくれている。
 こちらの疑問には答えてくれないが、他愛もない雑談にはにこやかに応じてくれる。
 手にしたグラスを口元に近づけて、レイドリックは顔を歪めた。
「なんというか……凄い臭いだな」
「そうですね。でも、ちゃんと飲まないといけませんよ」
 子供に言い聞かせるような優しい声で、司祭が言った。
「ああ、分かった」
 レイドリックは息を止め、一気にグラスをあおった。
 喉が動き、口に含んだ液体が胃へと落ちてゆく。
 強烈な苦味を持った液体であった。喉に刺々しい後味が残る。
 思わず、咳き込んだ。
 それを見た司祭が、くすりと微笑んだ。
「あら、ちょっと苦かったでしょうか」
「ちょっとなんてもんじゃないぞ、これは」
 眉をしかめながら、レイドリックが舌を出す。
 司祭は手にした水差しを傾けた。透明な液体が、レイドリックの持つグラスに注がれていく。
「はい、どうぞ。これはただの水ですから、これでお口をすすいでください」
 レイドリックはグラスの水を口に含み、音を立ててうがいをした。何度か水を注ぎ足してもらい、口内に残った後味を洗い落としていく。
「ふう――」
 ようやく落ち着きを取り戻し、レイドリックは大きく息を吐き出した。
 司祭はグラスを受け取ると、静かに立ち上がった。
 意識してか、それとも無意識なのかは分からないが、豊満な尻を揺するように、腰をくねらせながら机の方に歩いていく。
 熟した大人の色香を含んだ仕草であった。
 その後姿を見つめながら、しかしレイドリックは全く別のことを考えていた。
「なあ、なんであんたはいつも夢のことを訊くんだ?」
 かちゃり、と、グラスと水差しが盆に触れる澄んだ音が響いた。
 司祭が振り向いた。柔らかなウェーブのかかった金色の髪が揺れる。
 司祭は机の傍らに置かれた椅子に腰掛け、見事な脚線美を見せ付けるようにすっと脚を組んだ。
 顔にかかった髪を指先で払いながら、司祭は無言で微笑んだ。今までのような優しい笑みではない、どこか危険な香りを含んだ笑みであった。
 司祭の瞳が、真っ直ぐにレイドリックを射抜いていた。
「あなたが最初に目覚めた日のことを覚えているかしら。あの時も、夢のことを話したわよね」
「ああ、あれか」
 司祭が言っているのは、レイドリックが目覚める前に見ていた悪夢のことであった。
 剣戟と血飛沫に彩られた、修羅の夢。
 冷たい鎧を身に纏い、幾千の戦いを経て、幾千の死を迎える夢。
 だが、この一週間、あの夢を見たことはなかった。
 あれほど鮮明だった記憶も、今では朧に霞んで、よく思い出せなかった。
「あの夢はまだ見る?」
「もう見なくなったよ」
 司祭は満足そうに微笑んだ。
「そうでしょうね。でも、今は違う夢を見ているんじゃないかしら?違うけれど、やはり同じような悪夢を、ね」
「――覚えていない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。」
 レイドリックは答えた。偽りのない、素直な答えであった。確かに何かの夢を見ていたような気はするのだが、中身はどうしても思い出せないのである。
 だが、悪夢といわれれば、そんな気もする。
「あなたは、あれがただの夢だと思ってるの?」
「どういうことだ? 夢は夢に過ぎないだろう」
 つぅ、と司祭の唇の端が持ち上がった。
「違うわ。あれは、あなたの記憶なのよ」
 ――どくん、と。
 レイドリックの心臓が、大きく鳴った。
「効いてきたようね」
 司祭は楽しそうに言葉を続けた。
「さっきあなたに飲ませた薬はね、ある薬草から作り出したものなの。ウンバラのシャーマンが予言をする際に用いる薬草よ」
 心臓はどくどくと脈動し続けている。
「それを元に私が色々な処方を加えた、特別のお薬――」
 レイドリックは胸を押さえた。息が荒い。体が熱かった。
「目覚めたまま夢を見る薬よ」
 司祭の声はもうレイドリックの耳には届いていなかった。
 何かが、頭の中から湧き上がって来る。
 映像、匂い、声、手触り、味、苦痛。
 大きな津波が押し寄せるように、凄まじい量の知識がレイドリックの意識を飲み込んでいく。いや、知識ではない。それはレイドリック自身の記憶であった。
「あ……か、は……」
 喘ぐように、レイドリックの喉から声が洩れた。
 血の臭い。
 炎。
 怒号。
 断末魔。
 怒り。
 哀しみ。
 様々なものが混じりあい、レイドリックの中で爆発する。
 そして闇。
 レイドリックは立ち上がった。
 呟いた。
「――行かなければ」
 司祭は少し驚いたようであったが、すぐに落ち着きを取り戻し、
「成功したようね。でも、ちょっと効き目が強すぎたかしら。急激な記憶の復元で若干混乱してるみたいね」
 そう言ってレイドリックに近づき、そっと肩を押さえた。
「さあ、ベッドに横になって。少し休みましょう」
 だが、レイドリックは腰を下ろそうとはしなかった。
 また呟いた。
「俺は、行かなければ」
 もはやレイドリックの目には、司祭の姿が映っていないようであった。
「行かなければならないんだ。あの方のところへ」
 夢遊病者のようにぶつぶつと呟き、レイドリックは扉へ歩いていった。ノブに手をかけ、がちゃがちゃと何度もひねる。だが、扉には鍵がかけられていた。それに気付いていないのか、レイドリックはいつまでもノブを回し続けた。
 司祭は困ったという様に、ほう、とため息をついた。
「しょうがないわね。まぁここから出ることはできないでしょうし、しばらくこのままに――」
 そこまで言って、司祭ははっと視線を別の方向に向けた。
 レイドリックは何も感付いていないようであった。相変わらずドアを開けようとノブを回し続けている。
 だが、司祭は確かに、ただならぬ魔力の波動を感じていた。
 騎士団の方角からだ。
 ――これは、ダークロード様!?
 人間と戦っているのだろうか。いや、それにしては、放出される魔力量が多すぎる。ダークロードがこれほどの力を注がなければならないような人間など、そうはいないだろう。
 では、誰と戦っているのか。
 司祭は眼を閉じ、漂ってくる力の波動に精神を集中させた。
 一つは、よく知った波動であった。昏い洞のような、巨大な暗黒の塊り。これは、ダークロードだ。
 そのすぐ傍らに、ダークロードに匹敵する大きなエネルギーがあった。
 人間のようでもあるが、少し違う。
 人と魔族の中間のような波動だ。
 どうやら、ダークロードはこの誰かと戦っているらしかった。それも、かなり激しい戦いのようだ。
 一体、このグラストヘイムで何が――
 そこまで考えた時、突然部屋を大きな震動が襲った。
「きゃあっ!」
 地面が跳ね上がったような、凄まじい揺れであった。
 ダークロードと誰かの力がぶつかり合ったのだろう。その巨大なエネルギーは、グラストヘイム全体を揺るがすに充分すぎる程であった。
 司祭が被験体を匿うのに使っていたこの部屋は、グラストヘイム内でも特に老朽化が進んでいた場所である。激しい震動に耐え切れるはずもなく、たちまち亀裂が縦横に走り、天井が落下してきた。
 咄嗟に司祭は魔力で防壁を作り、崩落してきた瓦礫から身を守った。
 ようやく土煙が収まり、視界が晴れた時、司祭は唇を噛んだ。
「しまった――」
 無数の瓦礫が散乱する中、既にレイドリックの姿は消えた後であった。


  5/千年前――3


 修道院を脱出した俺達は、騎士団を目指して移動していた。
 グラストヘイムにはさまざまな建物が存在するが、それらは互いに地下や城壁内部に設けられた通路によって連絡されている。
 有事の際に物資や人員の輸送を行ったり、あるいは包囲された時の逃走経路として造られたものである。
 俺達が今通っているのは、そういった通路の一つであった。
 平時は使われることがないため、床には厚く埃が積もっている。空気も淀んでおり、息を吸い込むと思わずむせ返りそうになる。どうやら、通路の一部は下水道と兼用のようであった。湿った空気の中にカビの臭いや汚水の臭いが混じりあい、なんともいえぬ悪臭となっている。だが、今はそういった事を気にしている場合ではなかった。
 複雑に絡み合った通路を、慎重に進んでいく。灯りは何本かの松明があるばかりである。薄闇の中、壁に刻まれた標識を見落とさないようにしなければ、広大な迷路の中を永遠に彷徨うことになってしまうだろう。
 いくつかの分岐点を通り過ぎた時、後ろの方から誰かの悲鳴が聞こえた。
「ちっ、追いつかれたか!」
 剣を構え振り向いた俺を、弓の奴が引きとめた。
「馬鹿、こんな所で戦えば奴らの思う壺だ」
「だが――」
「だがもクソもねぇ。俺に任せな、お前と違って逃げるのには慣れてるからよ」
 弓の奴はそう言うと、追いすがってくる魔族どもの群れに向かって束ねた矢を撃ち込んだ。もちろん、こんな射ち方では充分な狙いはつけられない。だがそれでも何本かは命中したらしく、耳障りな呻き声が聞こえた。
 不意の反撃に怯んだのか、魔族どもの動きが止まった。警戒しているのだろうか、距離を開けてじっとこちらを観察しているようであった。
 その隙に、弓の奴は地面に素早く即席の罠を仕掛けていく。
 見事な手際であった。
「よし、行くぞ!」
 叫んで、走り出す。俺も、他の兵たちもそれに続いた。
 逃げ出した俺達を見て、魔族どもも勢いを取り戻したようであった。地響きのような足音と共に、一斉にこちらに向かってきた。
「止まるんじゃねえぞ、走れ!」
 弓の奴が叫ぶのと、背後で爆発音が響くのが同時であった。魔族どもがトラップに掛かったのだろう。複数の断末魔が混じりあい、おぞましい絶叫が聞こえた。
「やるじゃないか」
 俺が感心したように呟くと、
「俺みたいな弓使いはよ、敵の接近を許したらそこで終わりだからな。こういった追われる状況への対処も必修事項なのさ」
 弓の奴はそう言ってにやりと笑った。
「これで、いくらか時間が稼げるはずだ。今のうちにできるだけ引き離そう」
「ああ」
 頷きあって、俺達は走り出した。
 それから、どれほど走った頃であろうか。
「なっ――」
 突然、先頭を走っていた騎士が驚いたような声をあげ、立ち止まった。
「どうした?」
 その騎士の肩越しに前方を見やり、俺も思わずあっと声をあげた。
 前方に、魔族の一団がたむろしていたのである。
 ――先回りされたのか!?
 一瞬そう考え、即座に否定する。いくら魔族の脚力が人間以上であるといっても、迂回しつつ先行できるとは考えにくかった。
「おい――、こいつぁどうやら、道を間違えちまったようだぜ」
 弓の奴が苦々しげに呟く。
「ああ、そうらしいな」
 俺も同じ考えであった。
 つまり、魔族どもが先回りしたのではなく、俺達が遠回りをしてしまったのである。
 俺は舌打ちした。全力で走ってきたためだろう、どこかで壁に印された標識を見落としたか、あるいは見間違えたか――。どちらにしろ、今俺達は本来のルートからはずれた所にいるのは間違いなかった。
 向こうもこちらに気付いたようであった。一斉にこちらを向いた。目があった。得物を狙う蛇のような、無機質で冷たい目であった。瞬間、ぞくりと背筋が震えた。
 じり、と先頭の魔族が足を踏み出した。
「まずい、戻れ!」
「だめです、後方からも!」
 しんがりを務めていた兵が、悲鳴のような声をあげた。
「ちぃ――、もう追いつかれたか」
 俺は唇を噛んだ。
「さて、どうするよ?」
 弓の奴が、矢を番えながら訊いてきた。
「戦うしかなさそうだな」
「だな。さっき通った分かれ道、あの反対側へ逃げ込もう」
「その先にも奴らがいたら?」
「その時は、その時さ」
 弓を引き絞りながら、どこか飄々とした口調で弓の奴が言った。
 俺は剣を鞘から抜き放ち、叫んだ。
「全員、構え! 後方を突破し、左手の分岐路へ脱出しろ!」
 皆が一斉にそれぞれの武器を構える。
 どの顔も、覚悟を決めているふうであった。
 あとはもう、突撃の号令をかけるだけであった。
 俺は弓の奴に小さく呟いた。
「――死ぬなよ」
「安心しな、お前より先に死んでたまるかよ」
 俺達は顔を見合わせ、ふっと笑った。
「よし、行くぞ!」
 俺がそう叫ぶのと、前後の魔族どもが襲い掛かってくるのが同時であった。
 俺達は一丸となって魔族どもの群れに突っ込んだ。
 剣を振るい、眼前の敵を斬り払う。
 両断した魔族の体を押しのけ、前に進む。
 そこから先は、もう無我夢中であった。
 ひたすらに走った。
 襲い来る魔族どもを斬り捨て、足がもつれそうになりながら、なお走り続けた。
 圧倒的な数の敵を前に、俺達はたちまち散り散りになった。仲間達が生きているのか、死んでいるのか、それさえも分からなかった。
 ただ目の前の敵を振り払い、前へ進む。
 あとはもう、気力だけが頼りであった。
 視界が紅く染まっているのは、血のためか、炎のためか。
 息が詰まる。肺が焼けそうだ。
 骨も何箇所か折れているようだ。一歩前に出るたびに、全身に激痛が走る。
 それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
 肉が抉れる音。
 骨が砕ける音。
 悲鳴。絶叫。断末魔。
 生きながらにして喰らい尽くされていく同胞を思い、俺は歯を食いしばった。
 どこをどう走ったのだろうか。
 気がつくと、俺は一人になっていた。
 周囲は闇に覆われていた。自分の掌さえ見えない、完全な暗闇である。俺は松明を持っていなかった。
 魔族どもの気配はない。どうやら、逃げ切ったようであった。
 だが、仲間たちの気配もまた、なかった。
 自分がどこにいるのか、それさえ分からなかった。
 迷ってしまったか――
 ふっとこのまま闇の中一人で死んでゆく自分の姿を思い、全身の力が抜けそうになった。歯を食いしばり、折れそうな膝を支える。
 俺は手探りで壁に手をついた。
 そのまま、壁づたいに歩き出す。
 闇雲に走ってきたとはいえ、一応方角はそう大きく誤っていないはずだ。このまま進めば、恐らく騎士団へとたどり着けるだろう。
 真っ暗な中、自分の足音がやけに不気味に聞こえる。
 大丈夫、きっと脱出できる――そう自分に言い聞かせる。
 僅かの光もない中、己の気力だけが頼りであった。
 闇がまるでそれ自身が圧力を秘めているかのように、重く俺を包み込む。
 一歩。また一歩。
 歩を進めるたびに、もし全く見当違いの方向へ歩いていたら――そんなことが頭をよぎる。
 息がやけに苦しい。
 闇を呼吸しているのだ。
 気を抜くと、恐怖に押しつぶされそうになる。
 もうどれだけ歩いただろうか。
 恐ろしいほどの静寂。
 これだけ歩いたというのに、まだ出口は見えないのか。
 がくりと膝が折れた。
 ――もう駄目だ。
 絶望が俺を飲み込んでいく。
 目を閉じる。いや、もうとっくに目は閉じられていたのかもしれない。この闇の中では、それさえも分からなかった。
 その時、後ろから懐かしい声が聞こえた。
「馬鹿野郎、ぼさっとしてねぇでさっさと行くぞ。あの方が俺達を待っているんだ」
「お前は――」
 俺は振り向いた。
「おいおい、ダチの顔を忘れちまったのか?」
 弓の奴はそう言って、手に持った灯りで自分の顔を照らした。矢を束ねたものに火をつけて灯りにしているらしい。
「お前――生きてたのか」
「当たり前だ、死なねぇって約束しただろ?」
 弓の奴はそう言ってにやりと笑った。
「はは、そうだったな」
 つられて、俺も思わず笑顔になる。
「ほら、立てよ」
 弓の奴は俺の手を引いて、立ち上がらせた。
「他の奴らは?」
 俺がそう訊くと、弓の奴は少し目を伏せ首を振った。
「そうか――生き残ったのは俺達だけかもな」
「違うぜ」
「違う?」
「あの方は、きっとまだ戦っている」
 はっと、俺は顔を上げた。
「そうか――そうだったな」
「行こうぜ、相棒。もう少しで騎士団に着くはずだ」
 俺達は、歩き出した。


  6/現在


 レイドリックは、騎士団へと続く扉の前に立っていた。
 歩き回っているうちに辿り着いたのではない。夢遊病者のような足取りではあったが、確かに彼はここを目指して歩いてきたのである。
 心臓が高鳴っていた。
 何のためか、それは分からない。
 緊張か、興奮か、それとももっと別の何かであるのか。
 扉に手をかける。
 レイドリックの眼は、二つの扉を見ていた。
 一つは、今実際に見えている扉である。
 もう一つ、それに重なって見える映像があった。
 ――そうだ、俺は以前にも、こうしてこの扉を開けたことがあるはずだ。
 だが、それはいつのことだっただろうか?
 そもそも、俺は何故この向こうへと行こうとしているのか。
 ずきりと頭が痛んだ。
 凄まじい記憶の奔流が、頭の中を駆け巡っている。
 どこかに全ての答えがあるはずなのに、それを取り出すことができない。
 荒れ狂う濁流の中に手を差し入れるようなものであった。
 行かなければならない。その思いはある。
 だが一方で、どこかこの扉を開けることへの恐怖心もあった。
 ――以前この扉の向こうで、何があったのか?
 どうしても思い出せなかった。
 心臓が高鳴っている。
 緊張していた。
 しばらくの逡巡の後、レイドリックは意を決して扉を押す手に力を込めた。
 だが、扉が開くことはなかった。
 施錠されていたわけではない。錆び付いて開かなくなっていたというのでもない。
 扉が開きかけた時、レイドリックが突然飛び退いたのである。
 鋼鉄の扉に、漆黒の矢が突き刺さっていた。
 つい一瞬前まで、レイドリックの頭部があった場所である。
 避けなければ、死んでいた。
 矢が飛来する直前、レイドリックは殺気を感じて飛び退いたのである。
「誰だ!?」
 振り向きながら、レイドリックは叫んだ。
 やや離れた所に、一人の男が立っていた。手に巨大な弓を持っている。
「悪いな。お前を扉の向こうにやるわけにゃいかないんでよ」
 言葉とは裏腹に、悪びれた様子もなく男は言った。
「それは一体どういうことだ?」
 言いながら、レイドリックはじりじりと横に移動していた。
 心の中で、何かが警鐘を鳴らしていた。
 こいつは敵である、と。
 向こうは弓矢を持っている。それに対して、レイドリックは丸腰であった。
 視界の端に、剣が転がっていた。
 あれを拾えれば――
 だが、男の構えた矢は、ぴたりとレイドリックを狙っていた。剣を拾う素振りを少しでも見せれば、瞬時に心臓を射抜かれてしまうだろう。
「お前は何者だ?何故俺を狙った」
 レイドリックがそう問うと、男は少し寂しそうに苦笑した。
「なんだ、まだ記憶は完全じゃないんだな。俺の顔を忘れちまってるなんてよ。まぁいいさ、もう一千年も前のことだからな。今のお前はレイドリックで、俺はレイドリックアーチャー。それで充分だ」
「レイドリックアーチャー……」
「そう、それが今の俺に与えられた名前さ」
「ではレイドリックアーチャー、お前は何故俺を狙った?」
「それが俺の役目だからな」
「役目だと?」
「全く、本当に忘れちまってるんだな。一千年前のことも、それからのことも。イビルドルイドの奴からは何も聞かされてないのか?」
「イビルドルイド――赤の司祭のことか?」
「ああ、お前にはそう名乗ったのか。まぁ、奴はイビルドルイドって呼ばれるのが嫌いらしいからな。もうとっくに司祭なんてもんじゃなくなってるってのによ、いつまでも女々しいと思わねぇか?」
 くっくっく、とレイドリックアーチャーは笑った。
 構えていた矢が僅かにレイドリックから逸れた。
 ――今だ!
 レイドリックは横に飛び、転がりざまに剣を拾った。
「――ッ! てめぇ!」
 一瞬遅れて矢が放たれた。レイドリックはその矢を手にした剣でなぎ払い、近くの柱の影に飛び込んだ。
「やってくれるじゃねぇか。記憶は無くしても腕は落ちてねぇってか。そうじゃねぇとよ――」
 愉しそうにレイドリックアーチャーは言い、ぺろりと舌なめずりをした。
「それで、柱に隠れてからどうするんだ?言っておくが、お前がそこから俺の所に来るまで、俺は五回はお前を殺せるぜ」
「――――」
 レイドリックは答えなかった。
 確かに、レイドリックアーチャーの言うとおりであった。
 今の一撃は何とか躱すことができたが、距離を置いた戦いで剣が弓に勝てるはずがない。レイドリックが間合いに入るよりも先に、レイドリックアーチャーの矢がレイドリックを射抜くのは間違いないだろう。
「こうしてると、思い出すなぁ。一千年前もこんな感じだった」
 レイドリックアーチャーは愉しそうに喋り続けている。
 実際、レイドリックアーチャーは戦いを楽しんでいた。
 最初に射掛けてきた矢は、恐らく敢えて避けさせるために先に殺気を放ったのだろう。本気で殺すつもりならば、死んだことさえ気付かせぬまま頭を射抜くことも可能だったはずだ。
 一千年前――
 レイドリックの頭の中に、浮かんでくるものがあった。


  7/千年前――4


「行くぜ」
 弓の奴がそう言い、俺は無言で頷いた。
 扉に手をかけ、ぐっと力を入れる。
 視界を覆っていた闇を裂くように、縦に一条の光が生じた。
 重い鋼鉄の扉が、軋みながらゆっくりと開いてゆく。
 扉の向こうでは、ダークロードと二人の騎士が対峙していた。
 一人は、黒光りする鎧を纏った男の騎士であった。
 手に、よく使い込まれた感のするサーベルを構えている。
 グラストヘイム騎士団副団長、カリッツ様であった。
 数々の武勇を誇り、先代の騎士団長の頃から長年にわたって騎士団を支えてきた人である。
 年はもう中年に差しかかろうかという頃であるが、その剣の冴えはいまだ衰えることがない。
 カリッツ様の隣にいた人物が、こちらに気付き振り向いた。
「そなたらは――」
 記憶の中に刻まれていたのと全く同じ声で、その人はそう言った。
 鉄琴の奏でる響きのような、凛々しくそれでいて優しく包み込むような声。
 ああ――
 思わず、涙が溢れそうになった。
 柔らかな絹のような紅い髪。透き通るような白い肌。まだどこかあどけなさを残しながらも、引き締められた口元と力強い眼差しが、人の上に立つ者としての威厳を感じさせる。
 纏った白銀の鎧には、剣と十字架を象った紋章が刻まれている。
 そう、目の前にいる少女こそ、グラストヘイム騎士団の団長にして、グラストヘイムの姫君であるアビス様であった。
 俺と弓の奴はぴんと背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「姫……、よくぞ、よくぞご無事で……!」
「お前達も、私のいない間よく戦ってくれた。礼を言う」
 アビス様は微笑みながらそう言った。
 俺は思わず胸が熱くなった。
 その言葉だけで、今までの激戦の疲れが全て吹き飛んだかのようであった。
「よくやった。ゆっくり休むがいい」
 アビス様はそう言うと、きっとダークロードを睨んだ。
「ダークロード。貴様は私が斬る」
「いえ、我々も戦います!」
 弓の奴がそう言い、矢を番えた。俺も剣を構える。
「ほう、まだ生き残りがいたか」
 ダークロードが俺達を見て、にやりと唇を吊り上げた。
「よかろう。ならばこちらも手勢を増やすことにしよう」
 そう言って、ダークロードはぱちんと指を鳴らした。
「むっ――!?」
 ダークロードの足元に、いくつもの魔方陣が浮かび上がった。
 聖職者が用いる空間転送術に似てはいるが、違う。
 黒い光を放つ魔方陣であった。
 そこから、禍々しい瘴気と共に何かが湧き上がって来る。
 どこからか何かを召還しようとしているらしかった。
 魔方陣の中から、浮かび上がってくるものがあった。
 何だ、何を呼ぼうとしている――!?
 俺は目を凝らした。
 それは、人の形をしていた。
 だが、どこか歪であった。
 全てが出現した時、俺は思わず目をそむけた。
 捻れた手足、潰れた頭部、半ば喰い尽された腹部――
 ダークロードが喚び出したものは、人間の屍体だったのである。
「さて諸君、この屍体どもに見覚えはないかね?」
「――――ッ!」
 隣で、弓の奴が息を呑むのが分かった。
 俺も再び屍体に目をやり、驚愕した。
 それは、先程まで共に戦っていた騎士団の同胞たちの、無残に変わり果てた姿だったのである。
「気付いたか。そう、彼らはさっきまで諸君らの仲間だった者たちだよ。もう死んでしまっているがね」
 ダークロードは愉しそうにそう言った。
「貴様、彼らをどうするつもりだ!」
「さあて、どうすると思うね?」
 ダークロードはそう言って、屍体の上に手をかざした。
 その指先から無数の黒い糸のようなものが伸び、屍体の各部に絡み付いていく。もちろん、本物の糸ではない。ダークロードの魔力がそのような形をとっているだけだ。
「我に刃を向けようとした者どもだ。その罪には死すら生ぬるい。さあ、立ち上がれ。冥府から甦り、我が下僕となるがいい」
「なっ――」
 俺は自分の目を疑った。
 ダークロードの呼びかけに応じて、屍体たちが次々と起き上がっていくのである。
 苦しげな呻き声をあげながら、屍体たちがこちらを見た。その中の一人と眼が合った。暗く虚ろな眼をしていた。
「貴様――、よくも我々の仲間を!」
 アビス様が叫んだ。その声は怒りに震えていた。
「ほう、ではどうするね?」
「知れた事、貴様を斬る!」
 ダークロードは口元に薄笑いを浮かべ、首を振った。
「だがその前に、この不死者どもを倒さねば、我の元へは辿り着けぬぞ」
「く――」
「さあ、どうするね? その剣でかつての仲間を斬るか?」
「卑怯な! 正々堂々と戦えないのか!」
「ふむ、我には理解しがたい感情だな。もはやただの屍体でしかないというのに、何を躊躇する必要があるというのだ?」
 アビス様とダークロードのやり取りを横目に、俺は隣にいる弓の奴に囁いた。
「お前の弓矢でダークロードを狙えないか?」
 だが、弓の奴は首を振った。
「駄目だ、きっちり射線を遮られている」
 俺達の声が聞こえたのか、ダークロードはふとこちらを向いた。
「君達はどうだね? この者どもを斬り捨て、我に向かってくるか」
「――――」
 俺は剣を握ったまま、動けなかった。
「ふむ。ならばこちらから攻めよう。行け、ゾンビどもよ」
 ダークロードがそう命じると、何人かのゾンビがゆらゆらと体を揺らしながらこちらに向かってきた。
 ゾンビは、かっと口を開け、俺の首筋目掛けて噛み付いてきた。
 俺は、それを後ろにステップして避けた。
 バランスを崩したゾンビが、そのまま前のめりに倒れこむ。その上を踏みつけて、別のゾンビが襲ってきた。
「ちいっ――!」
 俺は剣を振りかぶり、襲ってきたゾンビに向かって振り下ろした。
 その瞬間、ゾンビの顔が目に入った。
 見覚えのある顔であった。
 修道院の決戦で、共に戦った騎士であった。
 剣の切っ先を重ね、最期まで共に戦うことを誓った騎士であった。
 ――斬れるのか、この俺に。
「くっ!」
 俺は寸前で剣を止め、横に飛んだ。
 ゾンビは向きを変えさらに迫ってくる。倒れていたゾンビも起き上がり、緩慢な動きでこちらに向かってきた。
「人間とは不思議なものよな。かつて知己であったというだけで、これほどに戦えなくなるとは」
 ダークロードはそう呟き、愉しそうに笑みを浮かべてこちらを眺めている。
 ゾンビの牙が俺に触れようとした刹那、その首が吹き飛んだ。
「む――」
 ダークロードが、その美しい眉をひそめた。
 頭部を失ったゾンビが、ゆっくりと地面に倒れこんだ。
 俺の目の前には、サーベルを構えたカリッツ様が立っていた。
 ゾンビを切り捨てたのは、カリッツ様であった。弓の奴も、アビス様も、驚いたようにカリッツ様を見つめている。
 カリッツ様は返す刀でもう一体のゾンビを両断し、アビス様に向かって言った。
「こやつらは私が引き受けます。姫様はダークロードを」
「だが――」
 アビス様が何か言いかけたが、カリッツ様はそれを遮った。
「私の役目は、貴女様の影となりて貴女様を守ること。そのためなら、同胞殺しの汚名も喜んで受けましょう」
 そう言って、カリッツ様はゾンビの群れに飛び込んだ。無数のゾンビたちが一斉にカリッツ様に襲い掛かる。
「カリッツ様、危ない!」
 俺は思わず叫んだ。
 だが、俺の心配は杞憂であった。
 カリッツ様は四方から迫るゾンビたちの牙を軽やかに躱しながら、手にしたサーベルでゾンビたちを次々と切り刻んでゆく。
 流れるような動きであった。
 森の中、木々の間を縫って吹き抜ける風のようであった。
 その華麗な体さばきとは裏腹に、振るう剣は鋭く、かつ正確にゾンビたちを斬り捨てていく。
 不死者たちは、多少の傷を負ったところでその動きをやめようとはしない。完全に動きを止めるには、手足を落としばらばらになるまで切り刻まなければならないのである。
 見事な剣技であった。
 俺も剣の道では多少の自信はあるが、その俺でさえ思わず見惚れてしまうような、なめらかで無駄のない動きであった。
 だが、無慈悲に振り下ろされる刃とは裏腹に、カリッツ様の顔は苦痛に歪んでいた。
 誰よりも騎士団を愛し、尽くしてきたカリッツ様である。
 騎士団員から父のように慕われ、カリッツ様もまた家族同様に、いや本当の家族以上に深い愛情を持って皆に接してくれた。
 そのカリッツ様が、かつての仲間たちを手にかけねばならない懊悩はいかなるものか。
 一振り、また一振り。
 不死者となり果てた仲間たちを斬りながら、己の心も斬りつけているのである。
 涙こそ見せてはいないが、俺にはカリッツ様の心が哭いているように見えた。
「カリッツ、そなた――」
 アビス様もそれを分かっているのだろう。
「アビス様、大丈夫です。私には構わず、奴を――」
 アビス様はぐっと唇を噛み、
「すまぬ、カリッツよ。そなたの苦しみ、無駄にはしない」
 そう言って、きっとダークロードを睨みつけた。
「ダークロード、覚悟!」
 アビス様の体が、地面を滑るようにダークロードに向かって疾走する。
 鈍い音が響いた。
 アビス様が下方から跳ね上げた刃を、ダークロードが右手で受け止めていた。
 刃と手のひらの間に、黒いオーラが渦巻いていた。アビス様が踏み込む一瞬の間に、魔力の防壁を展開していたのである。
「く――」
 アビス様が、ぎり、と力を込める。だが、ダークロードは微動だにしない。
 俺も続けてダークロードに斬りかかる。だが、ダークロードは俺の剣を避けようともしなかった。
 振り下ろした切っ先が、ダークロードの顔面を捉えた。
 不思議な感触がした。
 硬い物に弾かれたような手ごたえではない。だというのに、俺の剣はダークロードの皮一枚すら傷つけてはいなかった。
 弓の奴が放った矢も同じであった。からん、と音を立てて、矢が地面に落ちる。
「愚かな。アビス程の使い手ならともかく、貴様ら如きの攻撃なぞ受ける必要さえないわ。――さて、今度はこちらからゆくぞ」
 ダークロードが左手を持ち上げた。その手のひらに、瞬時に炎気を帯びた魔力が凝縮されていく。
 詠唱らしきものは何一つないというのに、並みの魔術師ならば全精神力を注いでも敵わぬほどの魔力量であった。
 ――無詠唱でここまでの術を行使できるというのか!?
 ダークロードが、ぶん、と腕を振るった。
「馬鹿野郎、伏せろ!」
 唖然としていた俺の体を、弓の奴が押し倒すようにして、俺達は地面に倒れ伏せた。そのすぐ上を、帯状の火炎が走り抜けていく。
 まともに喰らったならば、骨さえ残らぬであろう凄まじい業火であった。
「む――」
 炎が突然左右に割れた。
「はぁっ!」
 炎の中を突っ切りながら、アビス様がダークロードに向かって剣を振り下ろした。
 その刃が、ダークロードの肩口を切り裂いた。纏った漆黒の衣が破れ、そこから黒い瘴気のようなものが溢れ出す。
「ほう。さすが――」
 感心したような口調で、ダークロードが呟いた。
「洗礼の儀式を施した剣か。面白い。だが――」
 溢れ出した闇が、ダークロードの肩の部分に吸い込まれるように集まってゆく。それに伴って、破れたはずの衣までもが元通りに復元していった。
「この程度では、我は倒せぬぞ」
 そう言って、ダークロードは唇の端を吊り上げた。
「ならば、倒せるまで何度でも斬るのみ!」
 アビス様は再度踏み込み、右上から袈裟懸けに斬りかかった。ダークロードはその斬撃をふわりと躱しながら、アビス様の腹部に拳を打ち込んだ。アビス様の踏み込む勢いを利用した、カウンター気味の見事な突きであった。さすがは魔族の長たる闇の王である。魔力のみならず、体術においても並々ならぬ手練であるらしい。
 だが、その拳はアビス様の体に触れる前に、見えない壁に阻まれたように静止した。
「む!?」
 これまで常に不敵な笑みを浮かべていたダークロードであったが、ふとその顔色が変わった。
 たん、とステップを踏んで、ダークロードは間合いを離した。
 ダークロードは眼を細め、アビス様を注視した。その眼が、常人には見えぬ何かを捉えたようであった。
「これは――何かの結界か?そういえば、先程の我の火炎も効いておらぬようだった。だがアビス、お前にこれほどの術が使えるとは思えぬが――」
 何かを閃いたように、ダークロードが僅かにその眼を見開いた。
「そうか、アビス。貴様、ゲフェニアに行っていたのだったな。とすれば、この結界は奴が仕組んだものか」
「その通りだ。いかに貴様の魔力が強大とはいえ、彼がその魂をかけて遺したこの結界、決して破ることはできんぞ」
「ふむ、確かにな――」
「貴様の負けだ、ダークロード!」
 だん、とアビス様が地面を蹴った。その体が、まるで銀の矢と化したかのように、一直線にダークロードに向かって疾走する。
 だが、ダークロードは避ける素振りもなく、泰然と立ち尽くしたままであった。
「覚悟!」
 アビス様の渾身の一撃がダークロードを捉えたと思った刹那、アビス様の体は宙に縫い止められたように静止した。
「なっ――これは!?」
 ダークロードの足元に広がる影から無数の黒い糸が伸び、アビス様の手足に絡み付いていた。先程、死者たちを操るのに用いたのと似たようなものであるが、本数も感じる魔力もずっと強い。
 四肢を拘束されたアビス様を満足そうに見つめ、ダークロードは薄っすらと笑みを浮かべた。
「いかに結界で守られているとはいえ、その結界ごと動きを封じてしまえば手も足もでまい」
「くっ、放せ!」
 アビス様は身を捩ってもがいたが、手足に絡みついた黒糸は緩む気配さえなかった。
「とはいえ、触れることもできぬ以上、どうしたものか――」
 ダークロードは、アビス様の顔に向かってそっと手を伸ばした。
 その指先が、アビス様の肌の上を紙一枚ほどの隙間を空けて、つうっとなぞっていく。
「美しいな、お前は」
 眼を細め、ダークロードは呟いた。
 白く細い指先が、アビス様の顔形を確かめるように、ゆっくりと頬を伝い、唇の上を撫で、喉を下りていく。
「おのれ、貴様……、やめろ……!」
 恥辱に顔を紅潮させながら、アビス様が呻くように呟いた。歯を食いしばり、ダークロードをきっと睨み付ける。
「姿形だけではない。その決して絶望に屈さぬ高貴なる魂こそ、お前の美しさの源よ。全く、人間にしておくには惜しい」
 ダークロードはアビス様の顎をくっと持ち上げ、その喉元に唇を近づけた。
「貴様!姫を放せ!」
 俺は剣を拾い上げ、ダークロードに斬りかかった。後方から、弓の奴も立て続けに矢を放つ。
 ダークロードは、まるで飛び交う虫を払いのけるかのように、すっと右手を振るった。
 力を入れているようには見えないのに、巨大な岩がぶつかったような衝撃が俺を襲った。
 みしり、と骨が軋んだ。
 激しい苦痛に思わず呻きながら、俺は地面に転がった。
「小賢しいわ。アビスならともかく、貴様ら如きが我に敵うと思ったか」
「くっ――」
 ダークロードが、冷たい眼で俺達を見下ろす。
「これ以上邪魔をされるのも気に入らぬ。お前達はここで灰になるがいい」
 そう言って、ダークロードが両手を俺達に向けた。
 その唇が何かの詠唱を紡いでいき、炎気を帯びた魔力が掌中に集まっていく。
「死ぬがいい、名も知らぬ人間の騎士たちよ」
 ダークロードが俺達に向かって魔力を開放しようとした刹那――
「今です、カリッツ様!」
 俺が叫ぶのと同時に、ダークロードの後方から黒い影が躍り出た。
「ダークロード、覚悟!」
「む――!?」
 ダークロードは振り向きながら、カリッツ様に向かって両手を突き出した。
 だが、その掌から魔力が放たれるより一瞬早く、カリッツ様の剣が振り下ろされた。
 切っ先がダークロードの左腕を掠め、掌に凝縮した魔力が霧散する。
「おのれ、貴様!」
 ダークロードは残った右腕を振るい、凝縮した魔力を放った。
 地響きのような音と共に、凄まじい爆発が起こった。カリッツ様は直撃こそかろうじて回避したものの、爆風に巻き込まれ、後方に吹き飛んだ。
 そのまま、二、三度跳ねるように地面を転がり、カリッツ様はうつ伏せに倒れこんだ。衝撃で鎧が砕け、捻れた手足が奇妙な方向を向いている。
「カリッツ様!」
「う……、あ……」
 カリッツ様の肩がぴくりと動き、俺は思わず安堵のため息を漏らした。どうやら死んではいないらしい。
 ダークロードは、ざっくりと抉られた自らの腕を驚いたように見下ろした。不思議なことに、傷口からは血の一滴さえも流れ出てはいなかった。
「やるではないか、黒騎士よ。アビス以外に我を傷つけることができる者がいたとはな。だが、その様子ではもはや戦えまい」
「――その通りだ」
「ぬぅ!?」
 ダークロードが振り返るのと、一条の銀光が天から地へと疾るのが同時であった。
 咄嗟に身を守ったダークロードの腕が、宙に舞った。
 アビス様の剣は、ダークロードの左腕を完全に切断していた。
「カリッツ、よくやった。あとは私に任せて、ゆっくり休むがいい」
 アビス様はそう言い、手にした剣の切っ先をダークロードに向けた。
「そうか。この男が狙ったのは我の腕ではなく、貴様を捕らえていた魔糸だったのか――」
「そういうことだ、ダークロード。よくも私の部下を傷つけてくれたな。この借りは万倍にして返すぞ」
「――――」
 ダークロードの眼つきが変わった。
 瞳に宿した黒い光は変わらず、だがその闇は滾る炎のように猛り狂っていた。
 怒りに満ちた眼であった。
 ダークロードは、足元に転がった己の腕を拾い上げた。
 復元するのか――!?
 奴の膨大な魔力量からすれば、切り落とされた腕を接合するなど容易いものだろう。
 だが、俺の予想は外れた。
 ダークロードは、自らの腕をぐしゃりと握りつぶした。
「見くびっておったわ。アビス――」
 握りつぶされた腕は、たちまち灰と化して崩れ去った。
「失った腕は、自らへの戒めとして甘受しよう」
 掌中の灰を風に溶かしながら、ダークロードが言った。
「いいだろう、我も全力を尽くそう」
 ダークロードの右腕が上がった。
 ダークロードの右手が動いた。
 ふわりと空を薙いだにしか見えぬその手は、しかし必殺の一撃を放っていた。
「――ッ!」
 アビス様の鎧、その肩当が砕けた。下に纏った絹の衣が露になる。
「ほう、避けたか。流石だ」
 俺は戦慄した。
 この一瞬、何も見えぬ二人の間で、どれほどの攻防が繰り広げられたというのか。
「それ、さらにいくぞ」
 続けざまに、ダークロードが不可視の衝撃波を放つ。
「くっ!」
 アビス様とて、そう何度も同じ手を喰うような方ではない。俺の目には全く見えない攻撃を、これも俺の目には殆ど映らぬ高速の動きで躱してゆく。
「凄ぇ……」
 常人の域を超えた攻防に、見惚れたように弓の奴が呟いた。
 しかしアビス様の体捌きをもってしても、身を躱すのが精一杯のようであった。雨のように降り注ぐ衝撃波の連弾に、どうしても間合いを詰めることができないのである。
 根競べとなれば、アビス様の不利は否めない。
 全ての精神力と体力を使って避け続けているのである。いつまでも避け続けられるものではない。
 このままでは、負ける――
 俺がそう思った時、アビス様の動きが変わった。
 ダークロードを中心に、一定距離を保ったまま、円を描くようにその右側へと疾ってゆく。
「我の後ろへ回り込むつもりか。そうはさせんぞ」
 アビス様の動きに追従するように、ダークロードも体の向きを変えていく。
 ふっと、アビス様の体が柱の影に隠れた。
 騎士団の天井を支える太い石柱を挟んで、アビス様とダークロードが向かい合う。
「隠れて体力の回復を図るつもりか。だが、逃げてばかりでは我は倒せぬぞ」
 柱の影から、僅かにアビス様の足先が覗いた。
「――そこか!」
 ダークロードの腕が振るわれた。
 放たれた衝撃波は、柱の脇を抉り、アビス様の足を吹き飛ばした。――そう見えたはずだ。ダークロードの眼からは。
「こちらだ、ダークロード!」
 声は、空から聞こえた。
 天高く舞い上がり、矢の如く地上の得物を狙う鷹にも似ていた。
 ダークロードが顔を上げるのと、一条の銀光が天から地へと疾るのが同時であった。
 アビス様が選んだのは、右でも左でもなかった。
 脱ぎ捨てた靴を囮とし、折れた柱の上を飛び越えてダークロードに近づいたのである。
「やった――!」
 俺は思わず声をあげた。
 アビス様の剣は、ダークロードの体を額から足元まで両断していた。
 だが、俺の眼は、二つに割られながらも確かに笑みを浮かべたダークロードの顔を見ていた。
 二つに分かれたダークロードの体が、ぐにゃりと形を変えた。
「なっ!?」
 まるで巨大な二本の腕のように、二つの黒い塊りがアビス様の体を挟み込んだ。
 そのまま、アビス様を呑み込むように、闇がアビス様のまわりを包んでゆく。
「なんだ、これは!?」
 どこからか、声が響いた。
「言ったであろう、我も全力を尽くすと――」
 声は、アビス様を包む黒い塊りの影から聞こえた。
 俺は思わず自らの眼を疑った。
 影が、ぐぅっと膨らみ、空中にせり出してきたのである。
 空中に凝り固まった闇が、まるで意思ある生き物のように蠢き、その形を変えてゆく。
 足が伸び、手が生え、頭部が盛り上がってゆく。
 闇が、人の形へと変化していっているのである。
「気に入った。実に気に入ったぞ、アビス。冷静にして巧妙な駆け引き、躊躇うことなく振り切ったその刃。お前こそ我が寵愛を受けるに相応しい」
「これは……」
 隣で、弓の奴が息を呑むのが分かった。
「我が人間にこの姿を見せるのは初めてだ。いや、魔界においても我の真の姿を知るものなどそうはいない――」
 闇が喋った。
 いや、それはもう闇ではなかった。
 ぎろり、とダークロードがこちらを見た。その顔は、髑髏そのものであった。体には、骨で造られた鎧を纏っている。
 これまでの美貌とは正反対の、禍々しく醜悪な姿であった。
「ッ――! そうか、ダークロード。貴様は生来の魔族ではないな。不死者がお前の正体か」
 アビス様が叫んだ。
「そうだ。だが、それを知ったところでもはやお前は何もできまい」
「く――」
「無駄だ。我の影を一つ使って作った捕縛結界は、何人たりと逃れることはできぬ」
 アビス様の体を包んだ闇が、その圧力を増した。
 アビス様の顔が苦悶に歪む。
「殺しはせぬ。お前は生きながらにして人形にしてやろう。間違いなく、我のコレクションの中でも最高の一品となるであろう」
 ダークロードの髑髏の顔が、にやりと笑った。
「さあ、グラストヘイムの姫アビス、光の刃を持つ神の子よ。闇に沈み我が下僕となるがいい」
 その言葉と共に、アビス様を包む闇が変化した。
 縮小していくかのように見えたが、それは正しくなかった。
 沈み込んでいっているのである。――アビス様の体へと。
 それに伴い、アビス様の纏った白銀の鎧が、その輝きを失い、黒く、漆黒の闇色へと変わってゆく。
「ぐ……ぁ……!」
 アビス様の顔が苦悶に歪む。その心中で、己の内に入り込んでくる闇といかなる死闘を繰り広げているのか、俺には想像することさえできなかった。
「ダークロード……、私は決して闇になど屈さぬ……!」
「ふむ、これに耐えるか――」
 ダークロードが眼を細めた。
「さすが神の血を引きし魂よな。ゲフェニアのあ奴が仕掛けた結界も見事だ。どうやら、今の我の力をもってしても破れぬようだ。さて、どうしたものか――」
 ダークロードの眼が、俺達のほうを見た。
「闇を退ける結界ならば、闇に属さぬものにやらせればよい、か。――どうだ、お前達。その手に持った武器で、アビスの心の臓を貫いてみよ」
 不敵に微笑みながら、ダークロードは驚くべき提案をした。
「な――何を言う!」
 弓の奴が叫ぶ。俺も剣を固く握り締め、
「誰がそんなことを! 我ら、例え死しても、主君を手にかけるなどするはずがない!」
「そうか――ならば死んでみるか?」
 ダークロードの体が、ふっと動いた。
 次の瞬間、俺の体は凄まじい衝撃に吹き飛んでいた。
 ――何だ、何をされた!?
 あまりに速すぎて、何も見えなかった。
 ただ気がついた時には、俺は弾き飛ばされるように宙を舞っていた。
 弓の奴も同じであるらしかった。俺達はもんどりうって地面に転がった。
 全身がばらばらになったかのような痛みに、視界が歪む。肋骨も何本か逝ったようであった。
「身の程を知るがいい。お前達のような雑魚が我に敵うと思うのか」
 事実、今のダークロードは桁違いだった。
 ただ対峙しているだけで、その圧力に押しつぶされそうになる。
 もはや、戦うなどという次元ではなかった。狩るものと、狩られるもの。ただそれだけの関係でしかない。
 俺は歯を食いしばり立ち上がった。
「それ以上、姫に手を出すな」
 搾り出した声と共に、唇から血が溢れた。それを拳で拭い、剣を構える。
 弓の奴も立ち上がり、狙いをダークロードにぴたりと定める。
 ダークロードの瞳が、ふと哀れむような色を帯びた。
「愚かな。敵わぬと知りつつ、何故自ら死を望む?」
「敵うも敵わねぇもねぇ。俺達はただ姫のために戦うだけだ!」
 弓の奴が叫んだ。
 ダークロードが、じっと俺達を見つめた。
 窪んだ眼窩の中から、炯々とした黒い眼光が覗く。
 魂の中さえ覗き見られるかのような気がして、思わずぞくりと背筋が震えた。
「ふむ、些かお前達に興味が湧いた。問おう、何故そこまでして戦おうとする?」
「それは、俺達は騎士団の一員として――」
「アビスへの忠誠心だというのか」
「そうだ」
 ダークロードの髑髏の口が、にい、と笑みを浮かべた。
「偽りを申すな。ただの忠誠心で、これほどまでに強い精神力を発揮できうるはずがない」
「――――」
「お前達、この娘に惚れているな」
「なっ――」
 何を言う、と言おうとしたが、言葉がでなかった。
 弓の奴も同じであるらしい。無言でダークロードを睨み付けている。
 そうだ。
 そうなのだ。
 これまでずっと、心の奥底に秘めてきた思い。
 俺自身、頑なに否定してきた感情。
 誰にも決して知られてはならないよう、堅く閉ざしてきた心の扉。
 それが、開けられてしまった。
 俺は叫んだ。
「だからどうだというのだ!」
 ダークロードが、にやりと嗤った。
「ならば、貴様らが我と戦う理由はあるまい」
「それは――どういうことだ?」
「我の下僕になれ。そうすれば、アビスともども永遠の生を授けてやろう。どうだ、素晴らしいとは思わんかね」
「貴様、戯言を!」
 俺はぐっと剣を握った。
「ほう、それがお前の答えか」
 ダークロードは、弓の奴を見た。
「お前はどうだ?」
 弓の奴は、呆然とした様子で立ち尽くしていた。
「俺は――」
「奴の言葉など耳にするな!」
 俺は叫んだ。
「違うな」
 ダークロードが言った。
 ぞっとするほど優しい声であった。
「ここで我と戦って、お前達に何の意味がある? 所詮身分違いの叶わぬ恋であろう、ならば我の言葉に従うほうが賢い選択ではないか」
 弓の奴の体が、びくんと震えた。
 ダークロードは言葉を続けた。
「――そうだな、まず手始めに、その矢でそこの男を貫け」
 弓の奴は、顔俯けたまま、小刻みに体を震わせていた。
「さあ、弓を構えよ」
 弓の奴の腕が、のそりと持ち上がった。
 矢が番えられ、ぎりぎりと弦が引き絞られていく。
「何をする!?」
 俺は自分に向けられた矢と、それを構える親友の顔とを見た。
「目を覚ませ! 俺達は、グラストヘイムを守護する騎士だろう!」
 苦悶に顔を歪ませながら、弓の奴が呟いた。
「――違うんだ」
「違う?」
「俺は、ただあの方の側にいられれば、それで充分だった。それが俺の全てだったんだ。グラストヘイムだとか、魔族だとか、そんなのは関係ないんだ。あの方に仕え、あの方と共に戦うことだけが、俺の望みだった」
「お前――」
 苦しげに言葉を紡ぐ弓の奴を、俺はただ見つめることしかできなかった。
「そのためなら、例えこの身が魔道に堕したとしても――」
 弓の奴が顔をあげた。目が合った。
「すまない、俺は、お前を――」
「やめろ――!」


  8/現在


「そうか――そうだったな。お前は、あの時――」
 レイドリックは、柱を背にしたまま呟いた。
「思い出してくれたかよ」
「一つだけ、聞かせてくれないか」
「ああ。いいぜ」
「俺は、お前を誰よりも大切な友人だと思ってきた。それはお前も一緒だと、ずっとそう思ってきたのに……。それは俺だけの思い込みだったのか?」
 暫しの沈黙が流れ、
「いや、違わねぇよ」
 呟くように、そう答えた。
「だったら、何故俺達が戦わなければならないんだ」
 レイドリックアーチャーは、ふっと遠い目をして言った。
「だからこそ、さ」
 そう言って、レイドリックアーチャーは笑った。悟ったような、どこか寂しげな微笑みであった。
「一番のダチだからこそ、俺達は本気で戦わなけりゃいけない。そんな気がするんだ」
「――――」
 その時、扉の向こうから激しい爆発音が響き、騎士団が揺れた。天井にひびが走り、破片がぱらぱらと二人の頭上に降り注いだ。
 レイドリックは自分の体に積もった瓦礫を払いのけ、
「今この城で、一体何が起こっているんだ?」
 そう訊ねた。
「ダークロード様が戦ってるみたいだな。恐らく、ブラッディナイト様とだろう。さすがに二人ともすげぇな。これじゃ、建物のほうがもちやしねぇ。時間がないようだ、さっさと決着をつけようぜ」
「――どうしても、戦わなくちゃならないのか」
「くどいぜ、俺の親友はそんな意気地無しじゃなかったはずだ」
「くっ――!」
 レイドリックは柱を飛び出した。
 同時に、レイドリックアーチャーが矢を放つ。
 その矢を手にした剣の腹で受け、レイドリックは一直線に走り出した。
 立て続けに、レイドリックアーチャーが矢を放った。
 二本目、三本目。
 そのことごとくを、レイドリックは空中で叩き落していく。
「はは、やるじゃねぇか!そうじゃなきゃよ――」
 レイドリックアーチャーは歓喜の声をあげた。
 レイドリックは、剣の腹で自らの身を守りながら、突進した。
 迷いのない走りであった。
 距離を置いた戦いでは、剣が弓に勝てる道理はない。
 なんとかして、接近戦に持ち込む必要がある。
 そういう走りであった。
 矢の軌道は、射手の手元が見えれば予測するのはそう難しいことではない。
「だがよ、こいつはどうかな――」
 四本目の矢が放たれた。
 これまでと同じように、レイドリックはその矢を剣で払った。へし折られた矢が、力なく地面に落ちる。
 だが――
「ぐあっ……!」
 レイドリックは呻き声をあげた。
 左肩に、黒い矢が深々と突き刺さっていた。
 矢は、同時に二本放たれていたのである。
「もらった!」
 足の止まったレイドリックに狙いを定め、レイドリックアーチャーは手にした巨弓を限界まで引き絞る。
 しかし、その弓から矢が放たれることはなかった。
 レイドリックアーチャーの眼は、自分に向かって飛ぶ一条の光を見ていた。
 それが一体なんであるか――それを考えるより先に、体が動いていた。
 レイドリックアーチャーは、後ろに倒れこむように上体を仰け反らせた。
 そのすぐ鼻先を、白刃が唸りをあげて通り過ぎた。チッと何かが擦れるような音がして、レイドリックアーチャーの前髪が宙に舞った。
 二本目の矢を避けきれないと判断したレイドリックが、相打ち覚悟で己の剣を投げつけていたのである。
 咄嗟のスウェイバックでバランスを崩したレイドリックアーチャーは、そのまま後方に転倒した。
「くっ!」
 両手を頭の後ろにつき、体全体のバネを使って飛び起きる。
 だが、既にレイドリックは眼前まで接近していた。
 レイドリックの拳が、レイドリックアーチャーの顔面を捉えた。
 完璧な右フックであった。
 めきり、と鈍い音がした。
 レイドリックアーチャーの口の中に、生臭い鉄の味が広がった。
 レイドリックアーチャーの体がよろめいた。
 膝が震え、倒れそうになった。だが、倒れなかった。
 足を大きく開き、耐えた。
 レイドリックアーチャーは、ぷっと口内の血を吐き捨てた。その中に、白いものが混じっていた。
 それは、硬い音を立てて石床に転がった。
 歯であった。
「効くかよォ!」
 レイドリックアーチャーの左拳が、レイドリックの腹部にめり込んだ。
 レイドリックの体が『く』の字に折れ、その口から苦悶の声が洩れた。胃液が逆流し、喉を駆け上がる。
「ぐ……おぉおおお!」
 せり上がってきた胃液を吐き出しながら、レイドリックは吼えた。
 咆哮と共に、握った拳を叩きつける。
 レイドリックアーチャーの顔が苦悶に歪む。
 だが、倒れない。
 血に染まったレイドリックアーチャーの唇が、にぃ、と持ち上がった。
「そうか――、そうかよ」
 レイドリックアーチャーは、足元に転がっていた己の弓を、つま先で遠くに蹴り飛ばした。
「もう剣も弓も関係ねぇ――」
 そう言うと、レイドリックアーチャーは足を肩幅よりやや広げ、両拳を顔の前に持ち上げた。
 レイドリックも、同じように拳を構える。
 張り詰めた空気が、向かい合った二人の間に満ちた。
「来な。俺か、お前か。ケリつけようじゃねぇか」
 動いた。
 二人の口から、咆哮が同時に迸る。
 吼えながら、殴った。
 二人とも、相手の拳を避けることなど考えていなかった。
 殴れば、殴り返される。
 肉が肉を打つ重い衝撃音が、交互に繰り返される。
 顔面に、腹に、腕に、足に。
 互いの拳がめり込み、鈍い音を立てる。
 僅かの距離を置いて向かい合う二人の間を、血飛沫が舞う。
 既に拳の皮は破れ、血が流れ出していた。
 それでも、殴り続けた。
 もはや、痛みは感じていなかった。
 拳を喰らうたび、体の芯に響くような衝撃に意識が朦朧となる。
 それでも、眼はかっと見開いたまま、互いを見つめていた。
 それは、レイドリックアーチャーも同じであった。
 同じ女を愛しながら、人として側に居ることを望んだレイドリックと、魔族として側に居ることを選んだレイドリックアーチャー。
 ――ああ。
 そうか。そうなのだ。
 不意に、レイドリックは理解していた。
 殴られるたびに、奴の思いが、俺に届いてくる。
 どれだけ奴がアビス様を愛していたか。
 どれだけ奴が俺を大切な友だと思っていたか。
 あの一千年前の戦いで、奴がどんな気持ちで矢を放ったのか。
 これは、奴なりの懺悔なのだ。
 奴は、一千年の報いとして、俺に殺されることを望んでいるのだ。
 レイドリックの眼は、レイドリックアーチャーの頬を伝う涙を見ていた。
 実際に涙を流しているわけではない。
 だが、確かに見えていた。
 血の涙であった。
 途切れそうになる意識を必死に繋ぎとめながら、レイドリックも己の全てを叩きつけるかのように、レイドリックアーチャーの思いに応え続けた。
 喉から発せられる叫び声以上に、拳が叫んでいた。
 肉を抉り、骨を通して、奴の奥底にまで届くように、全霊をかけて殴りあう。
 まだだ。
 まだ、伝え切れていない。
 俺がどれだけアビス様を愛していたのか。
 俺にとって、どれだけお前が大切な存在であったのか。
 俺が何度お前に救われてきたか。
 ありがとう。
 そして、すまない。
 渾身の力を込めて振り切った拳がレイドリックアーチャーの腹部にめり込んだ時、
「が――は」
 口から大量に血を吐き出して、レイドリックアーチャーの動きが止まった。
 その体が、ぐらりと揺れた。
「へ……へへ」
 レイドリックアーチャーが、ふと笑みを浮かべた。
 笑みを浮かべたまま、ゆっくりと体が傾いていく。
 どさり、と音を立てて、レイドリックアーチャーは仰向けに倒れこんだ。
 ぼろぼろになった拳をだらりと下げ、レイドリックはそれを見下ろしていた。
「俺の負けだ、もう動けねぇよ――」
 そう言って、レイドリックアーチャーはもう一度笑った。
 その眼が、レイドリックの顔を見た。
「何だよ、泣きそうな顔しやがって。お前が勝ったんだ、ちっとは嬉しそうな顔をしやがれ」
 だが、レイドリックは顔を歪めたまま、
「すまない、俺は――」
 震える声でそう呟いただけであった。
「別にお前が気にする必要はねぇよ。どうせ先の短い命だったんだ。司祭は気付いていなかったが、俺に施された受肉法はまだ不完全だったしな」
「でも――」
 言いかけたレイドリックを、レイドリックアーチャーの声が遮った。
「一つだけ訊かせてくれ」
「――ああ」
「お前は、アビス様をどう思っている?」
「――――」
 暫しの沈黙の後、レイドリックは口を開いた。
「アビス様は、俺が命を賭けて仕える主君だ。そして、それ以上に、俺はあの方を愛している」
「そうか。――俺も同じさ」
 レイドリックアーチャーはそう言って、顔を逸らした。
「何で俺達、同じ女に惚れちまったのかな――」
 呟いた言葉は、誰に向けられたものだったのか。
 己にか、レイドリックにか、それとも運命を司る何者かにか。
「――――」
 そのまま、無言の時が流れた。
 しばらくして、レイドリックアーチャーは再びレイドリックを見て、ふっと笑った。力のない微笑みであったが、どこか満足げにも見える微笑であった。
 レイドリックアーチャーは、ゆっくりと眼を閉じた。
「悪いな、ちょいと疲れちまった。先に休ませて貰うぜ――」
「ああ――」
 そう呟いたレイドリックの眼から、溢れる雫があった。
 雫は頬を伝い、レイドリックアーチャーの顔の上に零れ落ちた。
 ゆっくりと上下していたレイドリックアーチャーの胸が、その動きを止めていく。
 レイドリックは膝をつき、レイドリックアーチャーの体を抱きしめた。
 その腕の中で、レイドリックアーチャーの体温が徐々に失われていく。
「馬鹿野郎」
 呟いた。
「俺より先には死なないって、そう約束したはずだろう――」
 レイドリックは、泣いていた。
 崩れ落ちる騎士団の中、レイドリックは最期までレイドリックアーチャーの亡骸を抱きかかえていた。


  了