闇に沈んだ刃

 0/

 周囲は薄暗い闇に覆われていた。
 その中に、二つの影があった。
 人影である。
 二つの影は、まるでダンスを踊っているかのように、絡み合い、闇の中を駆け巡っていた。
 リズミカルに、流れるように刻まれる二人のステップ。
 鋭い呼気が互いの口から漏れ、疾風の太刀が空気を切り裂き、打ち合わされた刃は鋼の悲鳴を響かせる。
 それは完成された交響曲のように、聴く者を恍惚とさせる戦場の音楽であった。
 繰り広げられているのが、互いの命を賭けた死闘でなければ――いや、それだからこそ、この調べは荘厳なまでに美しかった。
 振り下ろす一撃は、常に必殺。
 正確、かつ強烈な斬撃。
 それを寸前で受け止め、すぐさま同様の一撃を見舞う。
 生と死が交錯する瞬間。その刹那の時、まるで魂を全て燃やし尽くすかのように、眩しいきらめきが放たれる。
 その輝きが装飾音となって、この旋律に緊張を与えていた。
 壁面の所々に設置された蝋燭の灯りが、仄かに影を照らし出している。
 一人は、男であった。
 大男である。
 短く刈り込まれた頭髪に、強い意志を感じさせる眼差し。
 隆々と盛り上がった筋肉を覆う、鈍色の鎧。
 岩のような力強い量感を持った男であった。
 溢れんばかりの生命力が、躍動する筋肉から発せられている。
 手には、巨体に相応しい両手持ちの大剣を握り締めている。
 だが、その身のこなしは体に似合わず洗練され、僅かの無駄もなく、かつ迅速であった。
 男の戦いぶりを見るものは、誰もが驚愕し、そして感嘆するであろう。
 構え、斬り、受ける。
 単純な、それでいて完成された動き。
 それはもはや、芸術的とさえ言えるほどであった。
 どれほどの修練を重ね、どれだけの戦場を駆け抜けて、この境地へ達したというのか。
 対する影は、男以上に衝撃的であった。
 影は、女だったのである。
 いや、まだ少女といってもいいかもしれない。
 透き通るような白い肌は、まるで象牙のようであった。
 涼やかな目元、流れるような鼻梁、ほんのりと紅みを帯びた唇。。
 長く揺れる髪は、ルビーの輝きを帯びたように赤く、絹のように艶やかであった。
 その身に純白のドレスを纏い、その顔ににこやかな微笑みを浮かべたならば、まるで野に咲いた一輪の可憐な花を見た時のように、誰もが微笑み返さずにはいられないほどであろう。
 だが今少女が纏っているのは、邪悪な意匠の施された漆黒の甲冑であり、その顔には、何の表情も浮かんではいなかった。
 無表情――いや、表情だけではない。動きにも、感情らしきものが一つも見えないのである。
 少女の持つ剣もまた、鎧と同じく漆黒であった。
 巨大な剣であった。刃渡りは優に少女の背丈ほどもある。この華奢な体のどこにそれだけのパワーがあるというのか、少女はそれを軽々と振るい、男と互角――いや、それ以上に戦っていた。
 繰り出される斬撃は、その細腕からは信じられないほど疾く、重い。
 男の卓越した動きにも、寸分違わぬ速さで追随していく。
 それだというのに、その動きはどこか無機質であった。
 まるで、人形のような――
 男も、それを感じていた。
 二人の死闘は、もうどれほど続いているだろうか。
 男の呼吸が激しくなる。
 肺は空気を渇望し、心臓は激しく暴れている。体中の筋肉繊維は引き千切れんばかりであった。
 だというのに、眼前の少女は疲れている様子すらない。
 ただ、正確に、確実に、男の命を断たんとしてくるだけだ。
 これ以上戦いが長引けば、男の敗北は間違いない。
「ちいっ――」
 だん、と地面を蹴って、男が間合いを離した。
 一瞬遅れて少女もそれを追う。
 その刹那の時。
 男の全身の筋肉が、鋼鉄の発条をたわめるように、エネルギーを凝縮していく。
 少女が間合いに入った瞬間、それが弾けた。
 男の口から、裂帛の気合が迸った。
「ボウリングバッシュ――!」
 渾身の一撃が、空気を切り裂き、少女の頭上を襲った。
 唸りを上げて迫る斬撃を、少女は避けようともしなかった。
 代わりに、澄んだ声が轟いた。銀の鈴を転がしたような、それでいて凛とした声が。
「ブランディッシュスピア!」
 下段に構えた漆黒の大剣が、風を捲いて跳ね上げられる。
 本来槍技であるはずのブランディッシュスピアを剣で使いこなすとは、なんと恐るべき戦闘センスであろうか。
 いや、これはもはやセンスなどという言葉の範疇に収まるものではない。魔技と呼ぶに相応しい一撃は、まさしく必殺であった。
 白い刃と黒い刃が交錯する。
 きいん、
 と、甲高い金属音がして、時が止まった。
 静寂が辺りを包んだ。
 動くものは何一つない。
 そのまま、僅かの時が流れた。
 突如、静寂を破って、掌が打ち合わされる音が響いた。
 闇の中から、黒い影が姿を現した。
 男であった。
 その顔を見たものは、誰しも息を呑むであろう。
 いや、それだけではない。
 女はたちまちに忘我し、男でさえ恍惚としてしまうほどの美貌。
 この地上に、これほどの美が存在し得るというのか。
 美という概念が形を持ったならば、きっとこの男のようであろう。
 柳のような眉、憂いを帯びた切れ長の目、神の造形とさえ思える鼻梁、漆器のように黒く艶やかな長髪。
 病的なほど白い肌が、男の美貌に妖しい色気を添えている。
 男は、宵闇をより上げた糸で織り上げたかのような、漆黒のローブを纏っていた。
 闇に溶け込むような――いや、闇を纏っているかのようなその風貌。
 この男を作り上げたのが神ならば、それは間違いなく邪神であろう。
 天使に魅了される人間より、悪魔に魅了される人間の方が多いのは何故か。それは、邪悪こそ人が求めてやまない美を内包しているからである。
 男は再び手を叩いた。
 拍手であった。
 その口元に、満足げな微笑みが浮かんでいた。
「素晴らしい」
 心の底から嘆息するように、男が言葉を発した。
「全く、素晴らしい戦いであった。――アビス、もう下がってよい」
「はい」
 アビスと呼ばれた少女は、慇懃に礼をすると、剣を鞘に納め後退した。
 残ったのは、胸に大きな空洞のある男であった。
 少女の一撃は、男の剣を弾き、そのまま胸を貫いていたのである。
 それでも、男はまだ生きていた。
 苦しげな吐息を漏らし、喘ぐように口を開き、胸から大量の鮮血を溢れさせながら、その瞳はいまだしっかりと少女を見つめていた。
 黒い男は、ゆっくりと瀕死の男に歩み寄ると、その顎に指をかけ、くっと顔を上向かせた。
 細く白い指であった。
「ごく稀に、お前のような者が現れる。人類の規格外――人でありながら、人にあるまじき力を持った存在が。そのような者こそ、我が下僕に相応しい」
 脳を痺れさせるような甘く優しい声で、男が囁いた。
「お前はもうすぐ死ぬ。だがその前に、新たな生を授けよう」
 男はすっと右手を掲げ、その手首を左手の指先で撫でた。
 ぱっと真紅の花が咲いたように、手首から血が噴き出した。
「さあ、我が血を浴びよ。その身に真紅の衣を纏い、我が下僕として生まれ変わるがいい」
 流れ落ちた大量の血が、男の鈍色の鎧に絡みつき、紅に染め上げていく。
 いかなる奇跡か、男の苦悶の表情が和らいでいき、胸の傷は見る間に治癒していく。
 かっと見開かれていた瞳を静かに閉じ、男は床に倒れ伏した。
 その様子を見届けた黒い男は、再び己の手首をすっと撫でた。
 すると、まるで最初から何も無かったかのように、手首は元通りの美しい肌を取り戻していた。

  1/

 ごう、と風が唸りをあげた。
 振り下ろされた巨大な剣が、轟音と共に標的を両断する。
 強固な鎧も、斬撃を受け止めようとした盾も、それを纏う人間ももろともに粉砕する、凄まじい一刀であった。
 斬る、などという生ぬるいものではない。
 それはまさに相手を粉みじんに打ち砕く破壊であった。
 あまりの衝撃に標的の肉体は四散し、甲冑の破片と肉塊が周囲に飛び散った。
 べちゃり、という音と共に、さっきまで人間であったものが床に散らばる。
「ひい――!」
 仲間の無残な死を目の当たりにした男が、悲鳴をあげて後ろを向いた。
 服装からするに、聖職者であるらしい。
 逃げようとする男の背に向かって、地を蹴り駆ける。
 一瞬にして追いつくと、男の頭部を鷲掴みにし、そのまま握りつぶす。
 骨が砕ける鈍い音が響き、血と脳漿が指の間から溢れ出た。
 男の法衣が、赤黒い色に染まってゆく。
 二、三度痙攣し、男は動かなくなった。
 ぶん、と男の屍体を投げ捨てる。
 部屋の片隅に、白骨がうず高く積み上げられている。男の屍体はその一番上に乗ることになった。
 どこから現れたのか、死臭を嗅ぎつけた蟲や下級の魔物たちがたちまち屍体に群がり、一斉にその肉を喰らい始めた。
 くちゃくちゃと生肉を咀嚼する音が闇の中に響く。
 骨だけになるのも時間の問題であろう。
 先ほど飛び散った騎士の肉片も、いつの間にか無くなっていた。もう喰い尽されたのだろう、床には赤黒い染みと鎧の破片だけが残されていた。
 再び白骨の山に視線を投げる。
 全て、自分が殺した人間たちであった。
 これでもう何人目だろうか。
 いや、そもそも、どれほど経ったのだろうか。
 気がついた時には、ここ――グラストヘイム城にいた。
 正確にいうならば、城内の、かつて騎士団が兵舎として用いていた場所である。
 まだしばらくしか経っていない気もする。
 もう何年も経ったような気もする。
 日時の感覚は消失していた。
 窓は瓦礫に埋まり、室内に陽の光が届くことはない。ここは永久に闇に包まれた場所なのである。
 食事も摂ったことがない。
 普通の人間ならばとうに飢死しているはずだ。
 ならば、俺は人間ではないのだろうか?
 これも、何度も考えたことであった。
 自分が何者であるのか?
 幾度も繰り返した問いである。だが、その答えが見つかったことはない。
 ここに来る以前の記憶は、白いもやがかかったように曖昧であった。
 名前は分かっている。
 いや、分かっているというより、周囲がそう呼ぶため、それが自分の名だと考えているというだけである。
 ここに来る以前からそのような名前だったのかというと、確信がない。
 そもそも、「以前」などというものがあったのかどうか。
 それすら定かではないのだ。
 もしかしたら、俺は生まれた時からここにいたのかもしれない。
 ああ――
 ぶん、と頭を振って、ループする思考を追い払う。
 自分が何者であろうと、どんな過去があろうと、そんなことは、どうだっていいのだ。
 一つだけ確かなことがある。
 自分がが何者であるかは分からない。だが、その存在理由だけは分かっている。
 それは、どこからか聞こえてくる声。
 現実の音ではない。
 頭の中に直接響いてくる、抗いがたい囁き。
 ――この地の守護者として、侵入者を排除せよ。
 それは強制に近く俺を呪縛する。
 今までずっと、この声に従い、この場所に立ち入った人間たちを抹殺してきた。
 罪悪感も、達成感もなかった。
 俺はただ、俺の役目を果たしてきただけだ。
 これまでも、そしてこれからも、それは永遠に続くだろう。
 それでいい、と思う。
 哀しみや絶望はなかった。
 己に言い聞かせる。――俺は機械だと。
 何も考えず、何も感じず、与えられた役目を果たすだけの機械なのだ。
 だが、一つだけ、心に引っかかるものがあった。
 無表情な、美しい少女の顔――
 ちくり、と、無骨な鎧の下の胸が、微かに痛みを覚えた。
 その時――
「いつもながら無残な死に様ですこと」
 不意に、声をかけられた。
 振り返る。
 宙に、一枚の巨大なカードが浮かんでいた。
「――ジョーカーか」
 カードの中ほどが盛り上がり、それは見る間に人の形へと変わっていった。
 薄っぺらいカードからせり出した上半身は、妖艶な女性の姿であった。
 ジョーカーは、蟲や妖魔の群がる屍体を見て言った。
「不幸な人間だこと。この騎士団で、最も会ってはならないものに出会ってしまったのですからね」
 言葉とは裏腹に、その口調には死者を憐れむ響きは微塵もない。
「私ならば、もっと上品に死なせてあげましたものを」
「方法などどうでもいい。俺は俺の仕事を迅速にこなすだけだ」
 くすくすとジョーカーが笑った。
「あら、もったいない。せっかくのお客様なのですから、もっとゆっくりもてなしてあげてはいかがですか?」
「俺にはお前のようなサディスティックな趣味は無い」
 この騎士団において、ジョーカーの存在だけが異質であった。
 他の魔物たちが侵入者の排除という理由を持っているのに対し、ジョーカーは己の愉しみだけのために人間を殺戮するのである。
 その殺し方は、ある意味最も残酷であった。
 相手をからかうように翻弄し、肉体の自由を奪い、様々な方法でじわじわと苦痛を与えていくのだ。
 人間のあげる悲痛な叫びと苦悶の表情こそが、ジョーカーにとって何よりの愉悦であった。
 やがて相手が長引く苦痛に耐え切れず、自ら殺してくれと哀願するようになるまで、その遊戯は続く。
 発狂する者も多数いた。
「一瞬で死なせてやった方が、まだ楽というものよ」
「優しいですのね、見かけによらず」
 ジョーカーはさも可笑しいという風に、くすくすと笑い続けている。
 その顔が、ふと別の方向を向いた。
「レイドリックたちが騒がしいわね。新しいお客様かしら」
「そのようだ。――俺は行く」
 むう、とジョーカーが口を尖らせた。
「あなたは一仕事終えたばかりじゃない。今度は私にやらせてくださいな」
「――好きにしろ」
「あら嬉しい。じゃあまたね、ブラッディナイトさん」
 ジョーカーはそう言うと、剣戟の音が響く彼方へと消えていった。
 残されたブラッディナイトは、ほう、と息を吐き、己の手にした剣を見つめた。
 べっとりと血が絡んでいる。
 剣だけではない。
 その身に纏った鎧も、朱に染まっていた。
 だが、鎧の血は今ついたものではない。
 気付いた時からずっと、この鎧は血塗れだったのである。
 通常、空気に触れた血液は黒く変色してしまうはずであるが、鎧を染める血はいつまで経っても鮮やかな朱色のままであった。
 まるで、鎧そのものが血を流し続けているかのようであった。
 不思議なのはそれだけではない。
 いかなる呪いか、この鎧は、どうやっても脱ぐことが出来なかったのである。
「ブラッディナイト――血塗れの騎士か。永久に血塗られた俺には、相応しい名だ」
 そう呟いて、ブラッディナイトは闇の向こうへと歩き出した。


  2/

 闇の中に、白い顔が浮かんでいた。
 いや、正しくは一人の男がいるのである。
 ただその衣のあまりの黒さが、顔だけが闇に浮かんでいるかのような錯覚を生じさせている。
 怖気をふるうような美貌の男であった。
 どんな彫刻の名工がその技術の粋を尽くしても真似できぬであろう、完璧なまでに整った顔立ち。
 この男の前では、花は己の醜さを恥じ、月は輝きを失い、鳥は歌を忘れてしまうであろう。
 男の唇が、ふっと動いた。
 一目見ただけで魂さえ吸われたいと願わずにはおれないその唇から、囁くような声が漏れた。「――止めよ。もうよい」
 穏やかな、それでいて粛然たるその声に、男の下半身に絡み付いていた一人の少女が身体を硬直させた。
 可憐な少女であった。
 それでいて、ドレスから伸びる肢体は、どきりとするほど艶めかしい色香を放っている。
 ふっとその顔が上向き、男を見た。
 どこか悲しげな色を帯びた顔は、以前騎士団で人間の男と死闘を演じたあの少女のものであった。
 男が再び口を開いた。
「離れろと言っている」
 少女は名残惜しそうに立ち上がり、男から離れた。乱れた衣服を正し、直立する。
「――ふん」
 男は少女をちらと見やり、それから視線を少し離れた床の上に投げた。
 そこでは、半ば腐りかけた屍体が、ついさっき死んだばかりと思われる人間の屍体の上に覆いかぶさっていた。
 かつ、かつと何かを咀嚼する音が響く。
 生ける屍――アンデッドたちが、迷い込んだ冒険者を喰らっているのである。
 知性を失った不死者たちは、本能のままに人間を襲い、食欲を満たしていた。
 喰い散らかされた肉片や骨が、周囲に散らばっている。
 鼻を突く腐臭は、喰われた屍体のものか、それとも不死者たちのものなのか。
 その様子を見ていた男は、その美しい眉をひそめながら、
「醜いものだ。戯れに生を与えてみたものの、所詮は紛い物に過ぎん」
 溜息と共に呟いた。
 傍らに立つ少女は無言であった。
「――イビルドルイドよ」
「は、ここに」
 後ろの闇から、黒衣の魔道師が姿を現した。
 衣の中に覗く顔は、明らかな死人のそれである。だが、他の不死者たちと違い、彼には知性が残っているようであった。
 意図せず暗黒の生を授けられた他の不死者たちとは異なり、彼は自ら望んで不死者となったのである。
 飽くなき知識欲の果てに、生ける屍として永遠の時を生きることを選んだ狂った魔術師がここにいた。
「我は暫しここを空ける。後はお前に任せた」
「承知致しました。――アビス殿のところに行かれるのですね」
 男は答えず、漆黒の外套をひるがえし歩き出した。その後ろに先ほどの少女が続く。
 暗闇の中に、咀嚼音と二人の足音だけが響いていた。


 それから僅かの後、男はグラストヘイム城の旧騎士団兵舎へとやってきた。
 男の来訪を知っていたのか、多数の鎧武者が整列して待機していた。
 だが、直立し敬礼する彼らには、中身がなかった。
 本来鎧が包むべき肉体はなく、古ぼけた傷だらけの甲冑の中は暗い空洞であった。
  動く鎧 ( リビングアーマー ) ――レイドリックである。
 これも、男がその魔力をもって造り上げた存在であった。
 整然と二列に並んだレイドリックたちの間を、男と少女は悠然と歩を進めていく。
 しばらく進むと、一人の騎士が二人を迎えた。
「ようこそいらっしゃいました」
 恭しく頭を下げた騎士は、黒い甲冑を纏っていた。
 レイドリックたちと違い、中身はあるようであった。
 だが、その中身もまた正常な肉体ではなかった。――黒い鎧が包んでいるのは、骸骨だったのである。
「ブラッディナイトがいないようだが――」
 男は周囲を見渡しながら呟いた。
 ジョーカーの姿も見えないが、それは男には関係のないことであった。
 居並ぶレイドリックたち、眼前に控える黒い骸骨の騎士、そしてブラッディナイト――彼らは全て、男の魔力により生まれた存在であるが、ジョーカーだけはどこからかやってきて勝手にここに居付いたのである。
「まあ良い。あれは些か特殊ゆえ、我の来訪にも気付かぬのかもしれん。さて――カリッツよ。アビスはどこにいる?」
 男が尋ねた。
 その言葉に、ぴくん、と黒い騎士の身体が震えたかに見えた。
「――アビス様は現在、戦いの疲れを癒すために休息中でございます」
「構わん。連れて来い」
「ですが、ダークロード様――」
 カリッツの言葉を、冷たい声が遮った。
「もう一度言う。連れて来るのだ」
 ダークロード――闇の王の名を頂く男。
 その身は人間ではない。
 魔族――それも最高位の魔界貴族である。
 あらゆる暗黒呪法に通じ、その絶大なる魔力は神族すら凌ぐといわれている。
 グラストヘイム城の主たる彼の言葉は、いかなる恫喝よりも絶対であった。
「――承知致しました。すぐに連れてまいります」
 そう言い残し、カリッツと呼ばれた黒い騎士は兵舎の奥へと消えていった。
 しばらくして、闇の向こうから足音が聞こえてきた。
 足音は二つ。
 一人の少女と、傍らに付き添うカリッツのものであった。
「お連れしました」
 カリッツがそう言い、一歩退いた。
「よく来た、アビスよ。さあ、もっと近くに寄るがいい」
「はい」
 漆黒の鎧を纏った少女は、無表情のままダークロードに歩み寄った。
 その様子を、跪いたカリッツと、ダークロードの後ろに控える少女が、無言で見つめている。
 奇妙な図であった。
 アビスと呼ばれた少女と、ダークロードに付き添ってきた少女は、着ているものこそ異なるが、どちらも寸分違わぬ同じ顔をしているのである。
 違うのは、その髪の色――
 アビスが紅であるのに対し、もう片方の少女は青であった。
「ああ――アビスよ、お前は美しい」
 ダークロードは目を細めながら、ほう、と溜息をついた。
 その手が伸び、アビスの肌に触れるか触れないかのところで止まった。
 つう、と輪郭をなぞるように、指先が頬の曲線を滑っていく。
 アビスは直立したままである。その表情にも何の変化も見当たらない。
「紛い物にはない真実の美しさよ。まったく、人間にしておくには惜しい」
 陶然とした表情で、ダークロードはアビスの体を隅々まで見つめた。
 だが、ダークロードは決してアビスに触れようとはしなかった。――いや、触れられないのである。
「忌まわしきは、お前にかけられた呪いよ。我の力をもってしても解けぬその呪法――、人間如きが、これほどの結界を施せるとはな」
 憎々しげに呟いてから、ダークロードは懐から何かを取り出した。
 それは、親指の先ほどの大きさの玉であった。
 ガラスのような透明な球体である。
 その中に、七色の輝きが揺らめいている。
「いつか、お前の全てを手に入れてみせよう。それまでは、こうして、お前と、お前の魂を眺めて心を満たすとしよう――」
 ダークロードは手にした玉を目の高さまで持ち上げ、恍惚とした表情でそれを見つめた。
「こうしていると、我がこの城を滅ぼした時のことを思い出す。人々の阿鼻叫喚の中で、お前だけは一人、最後まで戦い続けた。決して絶望に屈さぬその高貴なる魂。地上のあらゆる宝石を集めたとて、この輝きには敵うまい」
「――――」
 アビスは虚ろな眼差しで、ダークロードの手にした宝玉を眺めている。
 近くに跪いているカリッツの、もはや白骨と化した肉体が微かに震えたことに、その場の誰も気付かなかった。


  3/

 広大な広間であった。
 薄暗いその部屋の中央に、静かに佇む二つの影がある。
 一つは、漆黒の巨馬に跨る黒衣の騎士。
 もう一つは、傍らに跪く骸骨の黒騎士。
 ここは、グラストヘイム城騎士団――
 二人の騎士は、アビスとカリッツであった。
 大剣を手に、静かに闇を見つめるアビス。
 影のように、その傍らに控えるカリッツ。
 二人とも、ぴくりとも動かない。
 微かにそよぐ風が、アビスの髪を揺らして通り過ぎた。
 黴臭い、ねっとりとした風であった。
 それでも、アビスは全く気に掛ける様子もなく、ただ凛としてそこに居るだけである。
 まるで、そこだけ時が止まっているようであった。
「――――」
 ブラッディナイトは、少し離れた場所からその様子をぼんやりと眺めていた。
 何故だろうか。
 アビスを見ていると、何かが心に引っかかるのである。
 アビスとカリッツも、ブラッディナイトと同じく、騎士団の守護者として侵入者を排除する役目を負った、いわば仲間であるはずだった。
 だが、それ以上の何かが、この二人にはあるように思えるのだ。
 何人たりとも立ち入ることの出来ない、固い絆と決意が、無言で佇む二人を包んでいる――そんな気がするのである。
「ブラッディナイトさん」
 ふと声をかけられ、振り向いた。
「ジョーカーか。何の用だ?」
「別に用があるわけではないですけど。それとも、用がないと話し掛けてはいけないとでも?」
「――生憎だが、俺はお前ほどおしゃべり好きじゃないんでな」
「あら残念。私は貴方とお話するのが好きですのに」
「別に俺でなくとも良いだろう。他をあたってくれ」
 くすり、と、ジョーカーが笑った。
「御自分ではお気付きになってないんですね」
「――どういう意味だ?」
 ブラッディナイトは、ジョーカーの方に向き直った。その目に疑問の光が灯っている。
「貴方は特別ということですわ」
「俺が特別だと?」
 ジョーカーは答えず、
「人形とおしゃべりしても楽しくないでしょう?」
 と、くすくすと笑いながら言った。
「人形――レイドリックたちのことか?」
「レイドリックだけではありませんわ。あの男に造られたもの全て――あの男が私たち魔族の間で何と呼ばれていたか、ご存知ですか?」
 ブラッディナイトが、眉をひそめる。
「あの男?それは誰だ?」
 ふふっ、と、ジョーカーの紅い唇の端が持ち上がった。
「ほら、それが特別だというのです。あの男に造られながら、あの男の呪縛を完全には受けていないイレギュラーな存在。それが意図されたものなのか、それとも偶然なのかは知りませんけども、お陰で良い話し相手ができて嬉しいですわ」
 ブラッディナイトの目つきが厳しくなる。
「お前は俺の何を知っている?俺は何なのだ?」
「残念ですが、それをお教えするわけにはいきませんわ。あの男に義理立てする必要はありませんけれど、一応口止めされてますから。でも――」
 ジョーカーの瞳が、妖しい光を帯びてブラッディナイトを見つめる。
「貴方の心に、貴方だけの記憶があるのなら、それが自らを知る手がかりになるかもしれませんわ」
「――――」
「私から言えるのはこれだけですわ。あとは御自分で答えをお探しになってはいかがかしら」
 そう言い残して、ジョーカーの姿はふっと闇に消えた。
(俺が――特別?)
 一人残されたブラッディナイトの胸中で、先ほどのジョーカーの言葉が繰り返し鳴り響いていた。
(俺だけの記憶――)
 それはどういう意味なのか。
 ブラッディナイトは、自分の心の中を探るように、目を閉じた。
 記憶とは、己の記録である。
 ――俺は何をしてきたのか?
 思い浮かぶのは、幾多の戦いだけであった。
 昼も夜もないこの場所で、ただひたすらに戦い続けてきた。
 修羅の記憶――、それだけがブラッディナイトの全てであった。
 他には何もない。
 これが、何の手がかりになるというのか。
 だが、その時、ふっと何かが脳裏をよぎった。
 どくん、と、胸が鳴った。
 ――何だ、今のは!?
 得体の知れない感情であった。
 狂おしく、それでいて甘やかな、痛みにも似たこの感覚。
 心などとうに捨てたというのに、それでも胸の内から湧き上がるこの感情は、何なのか。
 知りたかった。
 もっと、もっと近くへ――
 風に舞う一片の花びらを捉えるように、記憶の中に、そっと手を伸ばす。
 指先が、心の奥底に触れた。
 それは、一人の少女であった。
 どんな顔であったかは思い出せない。
 だが、覚えていることがある。
 その少女は、感情のない、無表情な――それでいて、とても哀しそうな顔をしていた。
 胸の痛みがさらに増してゆく。
 心臓が、きりきりと鋭利な刃物で優しく切り刻まれていくような痛み。
 気付けば、呼吸も乱れている。
 苦しかった。
 自分の中で、何かが暴れているかのようであった。
 その時――
 遠くで、剣戟の音が響いた。
 かちりと、頭のどこかでスイッチが入ったような気がした。
 反射的に剣を抜き放つ。
 胸の痛みは消えていた。
 先程まで渦巻いていた感情は、完全にどこかへ行ってしまっていた。
 今、心にある思いは、侵入者を排除する――ただそれだけであった。
「行くぞ、戦場へ」
 低く錆付いた声で、己に呟く。
 ブラッディナイトは、闇に向かって駆け出していた。


  4/

 黒い影が、疾風のように広大な広間の中を駆けてゆく。
 鳴り響く音は馬の蹄。
 漆黒の巨馬に跨るのは、同じく漆黒の鎧を纏った少女――アビスであった。
 既に抜刀している。
 アビスは手綱を引き、馬を止めた。
 手にした大剣が斜め下に突き出され、ぴたりと空中で制止する。
 その切っ先のすぐ前には、迷い込んだのか物好きかなのか分からないが、一人の冒険者風の男が座り込んでいた。
 足が竦んで動けないのであろう。恐怖にがちがちと歯が鳴っている。
「問う。ここから立ち去るか、否か」
 銀鈴のような声が響いた。
「あ、あ――」
 男は答えなかった。いや、答えようとしても、言葉が出てこないのである。
 それを拒否とみなしたのか、ざん、と骨肉を断ち切る音がして、男の首が宙に舞った。
 男の屍体が床に倒れこむのを見届けようともせずに、アビスはぶんと剣を振るい、絡みついた血のりを払うと、剣を鞘に納めた。
 遅れて、カリッツとブラッディナイトがやってきた。
「ご苦労様です、アビス様」
 床に伏した屍体を見て、カリッツが敬礼する。
「首を一太刀か。相変わらず見事なもんだな」
 ブラッディナイトが関心したように呟く。
 アビスは何も言わず、ただ馬上から闇を見つめているだけであった。
 その目には、ブラッディナイトもカリッツも映っていない。二人が傍らにいることさえ気付いていないかのようであった。
 全くの無表情である。
 戦闘に勝利した安堵感も、斬り捨てた人間への憐憫の情も、一切無い。
 だが、ブラッディナイトには、その顔にどことなく、ただ己に課せられた運命に沿おうとするひたむきな決意が浮かんでいるように思えた。
 ざわ、
 と、ブラッディナイトの胸が騒いだ。
 それを振り払うように、
「そういや、あんたは俺よりずっと前からここに居るんだろ。もうどれくらいになるんだ?」
 そう訊いた。
「――――」
 アビスは答えなかった。
「残念ですが、アビス様は必要なこと以外はお話になろうとはいたしません」
 代わりに、傍らに跪いていたカリッツが答えた。
「ちっ、無口なんだな」
「無口というのとは違います」
「じゃあ、どういうことなんだ?」
「それは――」
 カリッツが口ごもる。
「言いにくいことなのか」
「は、申し訳有りません」
 カリッツが深々と頭を下げる。
 ふう、とブラッディナイトは溜息をついて、
「俺がここに来てもうどれくらいになるか――まだまだ分からないことだらけだ。お前やアビスのこと、何故俺たちがここに居るのか、俺は何者なのか。ジョーカーの奴が、俺は特別だとか言っていたが、その意味もまだ分からん」
 と、呟くように言った。
「――――」
 カリッツは無言でブラッディナイトを見上げている。その髑髏の顔に、僅かに驚きの色が走ったようであった。
「どうした?」
 ブラッディナイトがその変化に気付き、カリッツの顔を覗き込む。
「いえ――まさか、いや、しかし――」
 カリッツは困惑したように何事か口ごもっている。
 暫しの逡巡の後、意を決したように、カリッツが顔をあげた。
「もしや、ブラッディナイト様――あなたは、『契約』以前の記憶がおありになるのではないですか?」
「契約?」
「はい。あの男に与えられた、呪われたその真紅の鎧――それを纏い、騎士団の守護者となる以前の記憶が、残っているのではありませんか?」
 ブラッディナイトは、途惑ったように視線を逸らした。
「――俺には、ここに来る前の記憶はない。だが、ジョーカーが言っていた。俺の心の中に俺だけの記憶があるならば、それが己を知る手がかりになる、とな」
「自分だけの記憶、それは見つけられたのですか?」
 ブラッディナイトは首を振った。
「いや、はっきりとは思い出せない。だが――」
 ブラッディナイトは、先日心に浮かんだ少女と、その時の理解を超えた感覚のことをカリッツに語った。
「――――ッ」
 それを静かに聴いていたカリッツの顔に、今度ははっきりと、驚愕の表情が浮かんだ。
「ブラッディナイト様、やはりあなたは――」
 そこまで言って、カリッツは口を閉ざし、その顔がふっと翳った。
「――どうした?」
 カリッツは沈黙したままであった。
 重い静寂が過ぎた。
 そのまま、どれほどの時が流れたであろうか。
 先に口を開いたのは、カリッツであった。
「私は、あなた様の記憶を取り戻す手伝いをすることができます」
「何だと!?」
「しかし、記憶を取り戻したからといって、それが必ずしも幸福であるとは限りません。むしろ、何も知らぬままのほうが平穏に暮らしてゆけるでしょう。それでも、己を取り戻したいと願いますか?」
 ブラッディナイトは暫し沈黙した後、
「構わん。例えその先にどのような苦難があろうとも、俺は自分を取り戻したい」
 きっぱりと、そう言った。
「――分かりました。ですが、一つ条件がございます」
「条件だと?それは何だ?」
「それは――」
 カリッツが、ちらりと横を見た。
「アビス様を、お救いいただきたいのです」
 ブラッディナイトが、太い眉をひそめた。
「アビスを救う?それはどういうことだ」
「詳しいことは申し上げられません。今はただ、アビス様を救うと、そう誓ってください」
「――分かった、誓おう。それで、どうやれば記憶を取り戻せる?」
「今はまだその時ではありません。いずれ機が満ちたならば、必ず」
「機が満ちる、とはどういうことだ?」
「それはまだ申し上げるわけには参りません。私の言葉を信じがたいとお思いでしょうが、我が剣と誇りにかけて、必ずや約束は果たします」
「いいだろう。騎士の誇りをかけると言ったお前の言葉、信じよう」
「ありがとうございます」
 カリッツは跪き、深々と礼をした。

「アビス様――」
 ブラッディナイトが立ち去った後、カリッツはアビスの方を向いて跪き、呟くようにその名を呼んだ。
 アビスは相変わらず無言のまま、ただ凛として馬上にいるだけであった。
 先ほどまでの二人の会話も、まるで聞こえていないようであった。
「もうすぐです。凍りついた時が、ようやく動こうとしています」
 物言わぬアビスに、カリッツは訥々と語り続ける。
「一千年――長い時間でした。私はずっと、この機会を待っていました。ですが、全てが終わった時、私は貴女の側にはいないかもしれません……」
 カリッツの声は、震えていた。
 アビスはただ、静かに闇を見つめていた。



  5/

 整然と二列に並んだレイドリックたちの間を、一人の男が悠然と歩いていた。
 その傍らには、可憐な少女が影のように寄り添っている。
 死と闇が充満したこのグラストヘイム騎士団で、それ以上に濃密な闇を纏う男――ダークロードである。
 魂さえ凍りつくその冷たい美貌の顔は、居並ぶ己の配下たちに何の関心もないかのようであった。
 今日は、もはや恒例となった謁見の日である。
 ダークロードの興味は唯一つ、アビスだけであった。
 やがて、ダークロードは行列の終端へ達した。
 そこに、一人の黒騎士が恭しく跪き、ダークロードを待ち構えていた。
 カリッツである。
 背後には、アビスの姿も見える。
「お待ちしておりました」
「うむ、大儀であった。――さあ、アビス。こちらへ来るがいい」
 アビスを招こうとしたダークロードを、カリッツが止めた。
「お待ちください」
「何だ?」
「今日は、些かいつもとは違う趣向でお楽しみ頂こうと思います」
「違う趣向だと?」
 カリッツは、はい、と頷くと、
「私とアビス様とで、演武をお見せしたいと思います」
 と言った。
「ふむ――久方ぶりにアビスの剣技を見るのも良いかも知れぬ。いいだろう、存分に演じるがよい」
「ありがとうございます。それでは――」
 カリッツが腰の剣を抜いた。
 直刀の片手剣である。
 握りの部分に、拳を覆うように鍔が被さっている。
 シンプルではあるがゆえに、洗練された美を思わせる剣であった。
 アビスに向かって構える。
 アビスは、ただ初めと同じ姿で立ち尽くしているだけであった。
「ダークロード様、アビス様へご指示をお願いします」
「うむ。アビスよ、この男と戦え」
「はい」
 澄んだ返事と共に、アビスが剣を抜く鞘鳴りの音が響いた。
「手加減は要らぬ。思い切り戦うがよい」
 にやりと笑いながら、ダークロードが命じた。
 それは、カリッツに死ねと言うことに等しかった。
 いかにカリッツの腕が尋常ではないとしても、アビスと互角に戦えるほどの実力はない。
 アビスがその全力をもって戦えば、カリッツなどひとたまりもないのは分かりきっていることであった。
 それでも、カリッツは表情一つ変えず、
「ではアビス様、参ります」
 たん、と地面を蹴った。
 鋼鉄と鋼鉄が打ち合わされる、甲高い金属音が闇に響いた。
 上段から振り下ろされたカリッツの剣を、アビスが手にした大剣の腹で止めたのである。
 そのまま、ぶん、とアビスが剣を振るった。
 凄まじい力であった。
 カリッツの身体が宙に舞い、もんどりうって地面に転がった。
 間髪入れず、アビスがその後を追う。
 頭蓋目がけて放たれた一撃を、カリッツは横に転がって躱した。
 刃が石床を粉砕し、破片が飛び散る。
 返す刀がカリッツを襲う。
 だが、刃は空を斬っただけであった。
 既にカリッツは起き上がり、アビスの背後に回っていた。
 無防備なその背中に、横なぎの一撃を放つ。
 その刃が、きいん、と音を立てて弾かれた。
 アビスが振り向きざまに振るった剣が、寸分違わずカリッツの刃を捉えていたのである。
 一瞬姿勢を崩したカリッツの頭上を、アビスの大剣が襲う。
 避けきれない――そう判断したカリッツは、剣を横にしてその一撃を受け止めた。
 きん、という金属音に混じって、みしり、と鈍い音がした。
 アビスの斬撃を止めた衝撃が、剣を伝い、カリッツの腕の骨に亀裂を生じさせたのである。
 止めた剣ごとカリッツを押しつぶすかのように、アビスの剣は更に圧力を増していく。
 その圧力に屈したように、カリッツが膝をついた。
 ぎりぎりと、アビスの剣が頭上からカリッツを押しつぶしていく。
 アビスの剣と床とに挟まれ、カリッツの肉体が軋む。
 腕の亀裂が更に広がっていく。
 びし、
 と音を立てて、腕が砕けた。
 止めるものの無くなったアビスの剣が、真っ直ぐに振り下ろされ、があんと床を打った。
 カリッツの右上半身が消失していた。
 腕が砕けた刹那、必死に身を躱したものの、完全には避け切れなかったのである。
 だが、真っ二つにならなかっただけでも見事なものであった。 
 カリッツが左手に剣を握りなおそうとするより速く、アビスの二撃目がカリッツの首を襲った。
 避けることも、防ぐこともできない完璧なタイミングであった。
 首が飛んだ――そう思った刹那、
「もうよい、アビス」
 その声に、アビスの剣がぴたりと止まった。
 声の主はダークロードであった。
 ダークロードは満足げに微笑みながら、
「なかなかに見ものであった。もう剣を納めてよいぞ、アビス」
「はい」
 一礼して、アビスが剣を鞘に納めた。
「カリッツ。そなたもご苦労であった」
 言いながら、ダークロードはカリッツへと歩み寄った。
 切り落とされたカリッツの右肩から先は、暗黒術法の影響から解き放たれ、ただの白骨となって床に散らばっていた。
 その白骨に向かって、ダークロードが手のひらをかざした。
 すう、と骨が浮き上がり、見る間に空中で組み合わさっていく。
「今修復してやろう。暫しそのままにしているがいい」
 ダークロードは出来上がった腕を手に取ると、カリッツの体にあてがった。
 目を閉じ、組みあがった骨格に魔力を通していく。
「ありがとうございます、ですが――」
 苦しげな声で、カリッツが呟く。
「我が身よりも、欲しいものがございます」
「欲しいもの、だと?何だ?それは」
「それは――」
 がっ、とカリッツが左手で剣を握った。
「貴方の、命でございます――!」
 叫びながら、手にした剣をダークロードに突き刺す。
 刃が深々とダークロードの体に沈んだ。
「――――ッ!」
 そのまま押し通し、背中まで貫く。
 ずぶり、と切っ先が背中から生え、確かな手ごたえがカリッツの腕に伝わってきた。
 カリッツは剣の柄から手を離すと、素早くダークロードの衣の中を探り、小さな宝玉を取り出した。
 ガラス玉のような透明な球である。
 その中に、不思議な光がゆらめいている。
 七色に輝く美しい宝玉――アビスの魂を閉じ込めた、魔法の玉である。
「アビス様!」
 立ち上がり、アビスに向かって駆け出そうとしたカリッツの体が、ふと凍りついた。
 動かない。
 いや、動けないのである。
 片足を前に出し、前傾したまま、カリッツの体は宙に固定されていた。
 体に見えない糸が絡みついたかのようであった。
 ゆらり、
 と、カリッツの背後で、立ち上がる気配があった。
「な…まさか…」
 カリッツが必死に首を回し、振り向いた。
 その目が、かっと見開かれた。
 その視線の先に、ダークロードが立っていた。
 ダークロードは目線を落とし、自分の体を見た。
「ふむ――穴が開いてしまったな」
 割れてしまった花瓶でも見つめているかのように、何気ない口調で、ダークロードが呟いた。
 その胸を、カリッツのサーベルが、確かに貫いている。
 だというのに、ダークロードは些かの痛痒も感じていないようであった。
 血も出ていない。
 胸に刺さったサーベルの柄を、ダークロードが握った。
 胸を貫いた刃を抜き取っていく。
 ゆっくりと、体の中から、白い刃が姿を現す。
 その刃にも、血はついていない。
 ずるり、と、完全に剣が引き抜かれた。
 ダークロードは手にした剣を持ち上げ、じっと見つめた。
 その口の端が、僅かに持ち上がっている。
 笑っていた。
「こんなもので――」
 ダークロードは、持っていた剣を投げ捨てた。乾いた音と共に、剣が床に転がる。
「我を殺せると思ったか?」
「――――」
 カリッツは答えなかった。
 もとより、殺せるとは思っていない。
 相手は魔界貴族――闇の王とまで言われた、ダークロードである。
 それでも、ある程度の足止めにはなると思っていた。
 いかにダークロードの肉体が強靭で、その魔力が強大とはいえ、体を貫くほどの傷を負わせれば、その治療に力を割かねばならないはずであった。
 手ごたえはあった。
 確かに、奴の胸を貫いたはずだ。
 ――効いていないのか!?
「さて、聞かせてもらおうか。何故このような行為をした?」
 ダークロードの冷たい声が響く。
 カリッツは答えない。
 代わりに、必死で、体を動かそうともがいていた。
 だが、ダークロードの魔力に縛られているため、動けない。
 ダークロードが、カリッツの手を見た。
 正確に言うならば、手に握られている宝玉を、である。
「ふむ、狙いはその宝玉――アビスの魂か」
「――――」
「残念だ、カリッツ。我はお前を高く評価していたつもりなのだがな。何故我を裏切った?」
「裏切りではない、私の主は、初めからアビス様ただ一人…」
 搾り出すような声で、カリッツが言った。
 ダークロードが目を細めた。
「確かに、お前はアビスの側近であったが、その記憶は我の契約の儀によって消えたと思っていた。我の魔力をもってしても消せぬその忠義――まことに見事」
「――――」
「まことに見事な、失敗作だ」
 ぞっとするような冷ややかな声で、ダークロードが言った。
 ぱちんと、ダークロードの指が鳴らされた。
 それを合図に、アビスがすっと一歩前に踏み出した。
「このままお前を処分するのはたやすい。だが、それでは我の気がおさまらん。介錯はアビスにさせてやろう。どうだ、素晴らしい最期だとは思わんかね?」
 アビスが腰の剣を抜いた。
 漆黒の刃が、壁の蝋燭の灯りを受けて、赤黒く輝いた。
「アビス…様…」
 カリッツが、呻くようにアビスの名を呼んだ。
 その言葉に、どれだけの思いが込められているのか。
 その眼は、どのような思いで己の主を見つめているのか。
 アビスは無表情のまま、ゆっくりと剣を頭上にかかげた。
 ぎり、
 と、柄を握るアビスの手に力が入った。
「アビスよ。この者の首を刎ねよ」
 ダークロードの声が、死を告げた。
「アビス様!」
 カリッツが叫んだ。
 同時に、アビスの握った剣が、真っ直ぐに振り下ろされた。
「ッ――!」
 カリッツは、思わず眼を閉じた。
 黒刃が空気を切り裂く音。
 続いて、金属が打ち合わされる音。
「な――!?」
 誰のものとも知れぬ、驚愕の声があがった。
 カリッツは恐る恐る眼を開けた。
 首は、まだ繋がっていた。
 眼の前に、巨大な人影が立っていた。
 岩のような影であった。
 影は、手に両手持ちの大剣を構えていた。
 その剣で、アビスの斬撃を受け止めていた。
「困るな。こいつにはまだ用があるんだ」
 その影が喋った。
 低い、錆び付いたような声であった。
「ブラッディナイト様……」
 カリッツが、影の名を呼んだ。


  6/

 闇の中――
 三間ほどの距離を挟んで、ブラッディナイトとカリッツ、そしてアビスとダークロードが対峙している。
 ブラッディナイトは、使い込まれた巨大な大剣の刃先を、やや斜め下に向けて構えている。
 カリッツも、飛び退きざま落ちていたサーベルを拾い上げ、身構えている。
 アビスは、漆黒の大剣を、水平に構えている。
 ダークロードは、悠然と立ち尽くしているだけであった。
 武器らしいものは持っていない。
 構えらしいものもとっていない。
 それでも、その身体から、圧倒的な圧力が発せられているのがわかる。
 そこだけ、空間が歪んでいるかのようであった。
 じり、
 と、ブラッディナイトとカリッツが、その圧力に押されるように、後ずさった。
「ブラッディナイト、貴様まで我を裏切るというのか」
 今までと変わらぬ静かな口調で、ダークロードが言った。
 だが、その言葉の中に、冷たい刃が潜んでいる。
「待てよ、俺はまだあんたと戦うと決めたわけじゃない。ただ、カリッツに用があっただけだ」
 言いながら、ブラッディナイトはじりじりと後退する。
「それが終われば、あとはあんたの好きにすればいい」
「ふむ、我の邪魔をするつもりはない、と?」
「ああ」
 両者の距離は、いつの間にか倍ほどに開いていた。
 広間の天井を支える支柱が、ブラッディナイトの脇にそびえている。
「そういうわけだ、こいつは連れて行くぜ」
 言って、ブラッディナイトが渾身の力で剣を水平になぎ払った。
 その刀身が、傍らの石柱を打つ。
 衝撃が柱を伝い、天井に達した。
 凄まじい轟音と共に、天井から大量の石片と砂埃が舞い落ちてきた。
 その砂埃に、ブラッディナイトとカリッツの姿が一瞬隠れた。
「む――」
 ダークロードが、柳のような繊細な眉をひそめた。
「逃げおったか――」
 視界が戻った時、二人の姿は何処かへと消えていた。


「ここまで来れば、しばらくは大丈夫だろう」
 足を止めたブラッディナイトが、カリッツの方に振り向きながら言った。
「それほど余裕があるわけではありません。ダークロードの魔力ならば、我らの位置などとうに感知されているでしょう。もって数分――」
 カリッツが、苦しげに喘ぎながら言った。
「痛むのか?」
 ブラッディナイトの視線は、カリッツの右肩に注がれていた。
 アビスとの演武で斬り落とされた腕は、既にダークロードの魔力によって復元されている。とはいえ、重傷を負ったのだ。まだ痛みがあるのも当然のことだろうとブラッディナイトは思ったのである。
 しかし、カリッツは首を振った。
「既に死んだこの身体、痛みはありません」
「だが、苦しそうだ。待ってろ、いま手当てを――」
 言って、ブラッディナイトがカリッツの身体に触れようとした刹那、その一部が灰のように粉となって崩れ落ちた。
「な――、これは、一体!?」
「私のような不死者は、創造主からの魔力によってその身を保っています。それが途絶えたのでしょう」
「創造主――ダークロードのことか」
 カリッツは頷き、
「直接手を下さずとも、魔力の供給を断ってしまえば、私は消滅するしかありません。先ほど数分といいましたが、私の身体はそれより先に灰と化してしまうでしょう」
「何故そこまでしてアビスを救おうとする?」
「理由、ですか――」
 カリッツの眼が、一瞬ふっと遠くを見た。
「それよりも、急がねばなりません。残された時間は少ない。あなた様の記憶を戻すという約束を果たさなければ」
「いいのか?」
 ブラッディナイトが問うた。
 残された時間を、アビスを救うことではなく、俺の記憶を取り戻すことに使ってもいいのか、という意味である。
「私の力では及びませんでしたが、あなた様がきっと私に代わりアビス様を助けてくださると信じています」
「何故そう言い切れる?お前が消滅した後、俺が約束を破棄するかもしれないぜ」
「いいえ、あなた様は決してそんなことはいたしません」
 きっぱりと、カリッツは言った。
「ジョーカー様の言葉を憶えておいででしょう。契約前の記憶を取り戻すためには、自分だけの記憶が必要だと――」
「ああ」
「私の記憶は、忠義でした。あなた様の記憶は、恐らく――」
「恐らく、何だ?」
「いえ、それはいずれ、自ずと分かることです」
 カリッツが、ゆっくりと立ち上がった。
「今から、あなた様に施された契約を断ちます。その場を動かず、じっとしていてください」
 そう言って、サーベルをぐっと握り、構えた。
 正眼の構えである。
 そのまま、ゆっくりと、腕を頭上に向かって振り上げていく。
 切っ先が天を指して、ぴたりと静止した。
 しん、と静まり返った闇の中、カリッツの白骨の体に、闘気が満ちていく。
 青白い炎のような、灼熱の気である。
 己の全てを振り絞るように、その闘気が、腕を伝い、刃を伝って、切っ先に集中していく。
「我が剣技は、このためにあったのかも知れません――」
 カリッツは小さくそう呟いた。
 ブラッディナイトは、その声に、どこか哀しげな響きが混じっていたような気がした。
「では、参ります」
 切っ先が、ぴくんと動いた。
「おぉおおおおおおッ――!」
 裂帛の気合を込めた咆哮が、闇を切り裂いた。
 それは、断末魔にも似た叫びであった。
 刃が、振り下ろされた。


  7/

「お……あ……」
 声にならない声が、カリッツの口から漏れた。
 既に、その身体は、半ば崩れかけている
 それでも、近づく足音に、失いかけた意識を取り戻し、カリッツは眼を開けた。
 闇の向こうから、近づいてくる人影がある。
「アビス……様……」
 カリッツが、影に向かって腕を伸ばそうとした。その腕は、灰となって崩れ落ちた。
「できれば、私がお助けしたかった……でも、力が及びませんでした……」
 言いながらも、カリッツの身体は、見る間に崩れ去ってゆく。
「一千年……長い時間でしたが、思えば蜻蛉のように儚き一瞬の時でした。命無き我が身なれど、死してなお貴女にお仕えすることができ、私は幸せでした……」
 いつの間にか、カリッツの眼球のない窪んだ眼窩に、光る雫が浮かんでいた。
 涙であった。
 髑髏となってなお、頬を濡らす熱い涙が、カリッツの目から溢れていた。
 その涙さえ、地に落ちるより先に、霞のように消えてゆく。
「どうか……、どうか……幸せになってください……それが私の、最後の……」
 言いかけた言葉と共に、カリッツの身体は灰となって崩れ落ち、風に溶けるように闇に消えた。
 アビスは無言で、じっとそれを見下ろしていた。
「別れは済んだかね?」
 アビスの後ろから、もう一つの人影が姿を現した。
 漆黒の闇を纏ったその影は、ダークロードである。
「さて、ブラッディナイトよ。我に歯向かうつもりはないと言った先ほどの言葉に、偽りはなかろうな」
 崩れ去るカリッツの身体を抱き支えていたブラッディナイトが、ゆっくりと立ち上がった。
 手に、巨大な大剣を握っている。
「――悪いな、あれは取り消しだ」
 低く、ブラッディナイトが言った。
「む――!?」
 ダークロードの視線が、ブラッディナイトの胴に止まった。
 ブラッディナイトの纏う血塗られた鎧に、大きなひびが走っていた。
 ダークロードの血を吸った、決して外すことのできぬ呪われた鎧――通常の力では傷をつけることさえ叶わぬはずのその鎧に、大きなひび割れが走っているのである。
 ダークロードの美貌の顔に、驚きの色が浮かんだ。
「まさか、貴様、我の契約を解いたというのか!?」
 ブラッディナイトは答えなかった。
 代わりに、
「今からあんたは、俺の敵だ」
 そう言って、手にした大剣の刃先をダークロードに向けた。
 凄まじい気が、ブラッディナイトの身体から迸るように発せられている。
 鬼気迫る――
 まさに、鬼神の如き圧迫感であった。
「行くぜ」
 だん、と地を蹴り、ブラッディナイトが駆けた。
 巨体が、風よりも疾く闇を裂く。
 振り下ろす斬撃は、それ以上に疾風であった。
「ぬう――!」
 激しい衝撃が、騎士団を揺るがした。
 石床が震え、壁面が軋む。天井の一部が崩れ、石片がぱらぱらと降り注いだ。
 ブラッディナイトの渾身の一撃を、ダークロードがその魔力を込めた掌で止めていた。
「くっ……」
 ぎり、とブラッディナイトの筋肉が盛り上がる。
 僅かに、ダークロードの体が後退する。
 押されている。
「どうした、闇の王という名は飾りか――」
 剣を握る手に、ブラッディナイトがさらに力を込める。
「むうっ」
 ダークロードも、さらなる魔力を掌に集中する。
 それでも、剣圧がそれを上回っている。
 ずず、とダークロードの体がさらに後退した。
 はっきりと、ダークロードの顔に、驚愕が浮かんだ。
 人間相手に、我が押されている――
 有り得ないことであった。
 そうか。
 契約の時、我がブラッディナイトに与えた力だ。
 もとより破格であった肉体に、魔族としての力を加えたのである。
 だが、ここまでとは。
「ちいっ!」
 ぶん、と腕を振るい、ダークロードが刃を撥ね退けた。
「アビス!」
 追撃を入れようとしたブラッディナイトの刃を、割って入った影が受け止めた。
 甲高い金属音が、周囲に鳴り響いた。
 アビスの漆黒の剣が、ブラッディナイトの大剣を止めていた。
 アビスが、主の呼び声に従い、その身を守ったのである。
 ブラッディナイトは後ろに跳び、間合いを広げた。
 アビスは追おうとしなかった。
 そのまま、睨み合う。
「さて、二対一になったな」
 にやり、と、ダークロードが笑った。
「――――」
 ブラッディナイトは無言で、横に跳んだ。
 アビスがそれに追随する。
 一撃。
 二撃。
 打ち合わされる刃が、鋼の音色を闇に響かせる。
「――ッ!」
 咄嗟に、ブラッディナイトの体が沈んだ。
 その頭上を、ダークロードの放った業火が空気を灼いて吹き抜ける。
 一瞬足の止まったブラッディナイトを、アビスの黒刃が襲った。
 横に跳んで、その斬撃を避ける。だが、その先に、新たな火炎が放たれていた。
 読まれていたのである。
 避けようのないタイミングであった。
「ぬおぉおおおおッ!」
 ブラッディナイトが、虚空に向かって、渾身の力を込めて剣を振るった。
 凄まじい剣圧が、空気の渦を巻き起こす。
 その渦がダークロードの放った火炎を巻き込み、炎はブラッディナイトの体に触れる寸前で霧散した。
 なんという機転、そしてパワーであろうか。
 戦いの神に愛された男である。
 修羅の男である。
 ダークロードが眼を見張った。
「何が、お前をここまで戦わせるというのだ――?」
「理由、か……」
 剣先を斜め下に向けて構えながら、ブラッディナイトは床を蹴った。
 地を這うように、その巨躯が疾走する。
「ぬうっ!」
 ダークロードが、掌を前に突き出した。その唇が瞬時に詠唱を完了し、持てる魔力の全てが掌中に凝縮されていく。
「おぉおおおおッ!」
 その掌ごと粉砕するように、ブラッディナイトの大剣が唸りをあげて一閃された。
 凄まじい圧縮の魔力と、全てを破壊する斬撃が、両者の間でぶつかり合う。
 両者のエネルギーが、掌と刃の触れ合う一点に収束する。
 瞬間、空間が歪んだ。
 そして、はじけた。
 爆発。
 轟音。
 爆風が周囲の瓦礫を吹き飛ばし、大地を抉った。
 残響が騎士団中にこだまし、やがて闇に溶けた。
 視界を遮っていた爆煙が、徐々に薄らいでいく。
 その中――
 立っている人影は、一つだけであった。
 ダークロードか?
 それとも、ブラッディナイトか?
 がらん、
 と、重い金属音が鳴った。
 剣が床に落ちた音であった。
 影が、足元を見つめながら、口を開いた。
「終わった……」
 立っている人影は、ブラッディナイトであった。
 その足元に、もはやバラバラといってもよいであろう、ダークロードの身体が転がっていた。
 ブラッディナイトが、ふっと顔をあげた。
 その身体もぼろぼろである。
 鎧は砕け散り、露わになった肉体は、よくこれで立っていられると思うほど傷だらけであった。
 肉が裂け、骨が露出している傷口さえある。
 それでも、ブラッディナイトは立っていた。
「アビス……」
 呟いて、歩き出す。
 一歩。
 また一歩。
 震える手が、ゆっくりと持ち上げられた。
 その指先が、立ち尽くすアビスに触れようとした刹那――
「ふむ、この肉体は気に入りだったのだがな」
 背後で、声がした。
「……ッ!?」
 ブラッディナイトが振り返る。
 その視線が、宙の一点に釘付けになった。
 闇が、蠢いていた。
「な――、これは!?」
 ブラッディナイトは、我が目を疑った。
 闇が、まるで意思あるかの如く、うねりながら空中に凝縮していく。
 凝縮した闇が、変質していく。
 ある形を取りながら、固体へと変化していっているのである。
 ある形――人間の形へと。
 闇が、喋った。
「見事だ、ブラッディナイトよ。よくぞ我をここまで追い詰めた。褒美に、我のもう一つの名を教えてやろう」
「もう一つの名……だと?」
「闇の王の名を手にする前――我は 人形遣い ( パペットマスター ) と呼ばれていた」
「それは……ということは、まさか……」
「この 肉体 ( にんぎょう ) は、我の最高傑作の一つであったのだがな」
 闇が、地面に散らばった身体を見やりながら言った。
「喜べ、人間。我がこの姿を見せるのは、実に一千年ぶりだ。最上級の栄誉と思うがいい。その栄誉を噛み締めながら、死出の旅路を逝くがよかろう」
 人の形をした闇に、ぴっと亀裂が走った。
 まるで脱皮をするかのように、その中から、一人の人間が姿を現していく。
 いや、人間のような形ではあるが、人間ではない。
 その顔は、髑髏であった。
 体には、骨を組んで作られた鎧を纏っている。
 まるで死を纏ったかのような鎧である
 今までの精緻を極めた美貌とは正反対の、邪悪が形になったかのようなおぞましい姿であった。
 魔界貴族ダークロードの、真実の姿であった。
「それが、お前の本体かい――」
 ブラッディナイトが、足元の剣を拾い上げ、構えた。
「なら、もう一度ぶった斬るまでだ!」
 踏み込み、剣を一閃する。
「――――」
 ダークロードが、無言で手をかざした。
 凄まじい衝撃が、ブラッディナイトの体を跳ね飛ばした。
 二、三度地面を転がって、ブラッディナイトは床に倒れた。
「無駄だ」
 冷たい声で、ダークロードが言い放つ。
「く……そったれ……」
 剣で体を支えながら、ブラッディナイトが立ち上がった。
 口から何かを吐き出した。
 血であった。
 ぐい、と口を拭い、再び剣を構える。
 その眼に、未だ消えぬ闘志が燃えていた。
「まだ戦うというのか。何がお前をそこまでさせるというのだ?」
「お前には、一生分からねえだろうよ……!」
 言って、ブラッディナイトの体が疾った。
 傷だらけの巨躯が、雷光の如く地を駆ける。
 この体のどこにそれだけの力が残っているのか。
 今までのどの一撃よりも、疾い。
「むう!?」
 ダークロードが迎撃姿勢を取る。
 同時に、アビスも漆黒の剣を手にブラッディナイトに向かって跳んでいた。
 三者の影が交錯する。
「が……はっ……」
 苦痛の呻きが洩れた。
 声の主は、ブラッディナイトであった。
 腹部を、黒い刃が貫いていた。
 ブラッディナイトの腕の下に、アビスの体が潜り込んでいた。
 アビスの手にした剣が、ブラッディナイトの体に、深々と沈んでいる。
 乾いた音を立てて、ブラッディナイトの握っていた大剣が床に落ちた。
 勝負あった――
 誰もがそう思うであろう、致命傷であった。
 だが、確かにその時、ブラッディナイトの口元は笑っていた。
 勝利を確信した笑みであった。
 ダークロードがその笑みの意味を考えるより早く、ブラッディナイトの太い両腕が、アビスの体を包んでいた
 そのまま、強く抱きしめる。
 アビスは、剣を手にしたままである。
 刃がさらに深く沈み、切っ先が背中を貫いた。
「な――!?」
 驚愕の声は、ダークロードのものであった。
 ブラッディナイトが、抱き止めたアビスの唇に、己の唇を重ねていた。
 壮絶な口づけであった。
 己の体を貫いた少女を抱き寄せ、その唇を奪ったのである。
 そのまま、どれほどの時間、二人は唇を重ねていただろうか。
 実際には、一瞬の出来事であった。
 だがそれは、永遠にも思える刹那の時であった。
 唇が離れた。
 ブラッディナイトの体がぐらりとのけぞり、ゆっくりと傾いていく。
 その口元に、満足げな微笑みが浮かんでいた。
 重い地響きを立てて、ブラッディナイトの巨体が床に倒れた。
 同時に、アビスの喉がこくん、と小さく鳴った。
 喉が動いた。
 何かを嚥下する動きであった。
 口づけの時、ブラッディナイトが口に含んでいた何かをアビスの口内に押し込み、それを飲み込んだのである。
「まさか!?」
 ダークロードがはっと眼を見開いた。
「その、まさかさ……」
 仰向けに倒れたまま、ブラッディナイトが言った。
「カリッツから託された形見の品、確かに届けたぜ……」
 言い終わるより早く、アビスの体が、白い光に包まれた。
 騎士団に満ちていた闇を駆逐するかのような、まばゆい輝きが、アビスを包んでいる。
 その光に浄化されるように、アビスの纏っていた漆黒の鎧が、闇の色を失っていく。
 黒色から灰色へ、灰色から白色へ。
 手にしていた剣も同様に、黒から白へと変色していく。
 白――いや、白銀の輝きに包まれた少女が、ゆっくりと顔をあげた。
 今までの無表情な顔ではなかった。
 優しさと凛々しさに満ちた顔であった。
 その眼に、はっきりと輝きが戻っている。
「よお……」
 アビスを見上げて、ブラッディナイトが口を開いた。
「はじめまして、かな……。あんたが、本当の、アビス……なんだろ?」
 ごぼ、
 と、その口から赤い液体が溢れ出た。
 アビスがブラッディナイトの傍らにしゃがみこみ、
「喋るな、傷に障る」
 優しい声で言った。
 アビスの手が、傷口に触れた。
 暖かな光が、掌から発せられ、傷口を撫でてゆく。
「このまま安静にしていれば大丈夫だ」
 そう言って、アビスがすっと立ち上がった。
 その視線が、少し離れた場所に落ちた一振りの剣に止まった。
 カリッツのサーベルである。
 アビスの顔を、ふっと一瞬、哀しげな表情がよぎった。
「逝ったのか――」
 呟いて、アビスが顔をあげた。
 その眼が、きっとダークロードを睨みつける。
「――久しぶりだな」
 今度は、先ほどまでの優しい声ではなかった。
 凛とした声であった。
 厳とした声であった。
 手にした白銀の剣の切っ先が、ゆっくりと持ち上がり、ダークロードの方を向いて静止した。


   8/


 廃墟と化した騎士団の中、闇と光が向かい合っていた。
 宵闇を纏った闇の王と、白銀の輝きを纏った少女である。
「魂を取り戻したというのか――まさか、そんな――」
 ダークロードの髑髏の顔が、驚愕の色に染まっている。
「一千年ぶりだな、ダークロード」
 銀鈴のような声が、闇に響いた。
 透き通った、それでいて凛々しい声であった。
 ふっと、アビスが周囲を見渡した。
「そういえば、あの時もここだった」
 一千年前の戦い――
 ダークロード率いる魔族と、グラストヘイム神国との、凄絶なる戦争である。
 その最後の決戦が行われた地が、ここ、グラストヘイム騎士団であった。
「ここも、変わってしまった。あの頃ともに戦った仲間も、みな死んでしまった。カリッツまでも――。だが、変わらぬものもある」
 アビスが、すっと剣を構えた。
「決着を、つけよう」
「――――」
 ダークロードは、無言であった。
 その顔が、急速に平静を取り戻していく。
 闇がさらに濃度を増し、ダークロードに集結していく。
「――いいだろう」
 ダークロードが、口を開いた。
「今度は、魂だけではない。お前の全てを、我の手に入れて見せよう」
「私に、二度の敗北はない」
 アビスの体が、ふっと動いた。
 銀の輝きが、闇の中に疾った。
 常人の眼には止まらぬ動きであった。
「ぬぅん!」
 ダークロードが、右腕を振るった。
 その指先から、凄まじい雷撃が迸った。
 闇を縦横に切り裂く雷の中を、アビスの体が駆け抜けていく。
 網のように張り巡らされた雷も、アビスを捉えるには至らない。
「はっ!」
 銀光が一閃した。
 確かな手ごたえとともに、ダークロードの右腕が宙に舞った。
 返す刀が、ダークロードの首を狙う。
 だが、鈍い衝撃がアビスの刃を止めた。
 ダークロードの左手が、アビスの振るった剣を受け止めていた。
 いや――受け止めようとした。
 魔力で強化した左手を、アビスの斬撃が両断していた。
「むうっ」
 ダークロードが後ろに跳び、間合いを広げた。
 切り落とされた腕から、蒼い血が噴き出している。
 その眼が、驚愕に見開かれていた。
 強い。
 一千年前の戦いとは比べ物にならないほど、強い。
 何がアビスをここまで強くしているというのか。
 今度は眼を細め、アビスを見る。
 人に有らざるものの眼が、この世に在らざるものを捉えた。
 ――そうか。
 それは、カリッツであった。
 カリッツの魂が、アビスの剣に宿っているのだ。
 いや、カリッツだけではない。グラストヘイムの地に生きた全ての人々の魂が、アビスに力を与えている。
 一千年前の戦いで散った数多の人々が、魂となってなお戦っているのである。
「おのれ、たかが人間の亡霊ごときが、我に歯向かうというのか……!」
 ぎり、とダークロードが歯軋りした。
「とどめ――!」
 アビスがダークロードの体を追って、地を駆けた。
 踏み込みは、迅速にして強烈。
 左下方から右上方へ、なぎ払う剣閃は一条の光であった。
 斬った――
 そう思った刹那、アビスとダークロードの間に割って入った影があった。
「な……!?」
 必殺の刃は、ダークロードではなくその影を両断していた。
 割って入った影は、アビスと同じ顔をした少女――アリスであった。
 胴を袈裟懸けに両断されながら、アリスはアビスに抱きつき、叫んだ。
「今です、ダークロード様!」
 にやり、と笑みを浮かべながら、ダークロードが両腕を上げた。
 切り落とされた切断面から新たな腕が瞬時に再生し、掌が天に向けられる。
「天に眠る数多の星々よ――」
 詠唱が始まり、魔力が掌に集結していく。
 ダークロードでさえ、これだけの詠唱を要する魔法――
 生半可な魔法ではないことが、それだけでも分かる。
「くっ、離せ!」
 アビスが、アリスを振りほどこうともがく。だが、アリスはがっちりとアビスの体を抱きしめたまま離そうとしない。
「このままだと、お前まで巻き添えを喰うぞ!」
「構いません――」
 絶え絶えに、アリスが言った。
「何故、そこまで……」
「本物である貴女には分からないでしょうね。貴女に似せて作られた人形 ( わたし ) がどれだけあの方を愛しても、所詮は人形――偽物でしかない。あの方は決して振り向いてくれない。でも、それでも、私はあの方の役に立ちたい……」
「お前――」
 アビスはアリスの体を見た。
 両断された胴から覗いているのは、人間の体ではなかった。流れ出ているのは血ではなく、透明な魔法液。それが巡るのは血管ではなく、細いガラスのようなパイプ。骨格は金属であり、体を動かすのは無数の歯車とバネであった。
「よくやった、アリス。戯れに作った人形ながら、無駄ではなかった――!」
 ダークロードが高らかに叫び、その掌がぐっと握り締められる。
 凄まじい轟音と共に騎士団の屋根が吹き飛び、ダークロードの手から放たれた魔力の塊が夜空へと吸い込まれていく。
 天に穴を穿ったように、黒い空に複数の光点が生まれた。
 その光点が、見る間に大きくなっていく。
 近づいているのである。
 近づくにつれ、光点が、その正体を現していく。
 それは隕石であった。
 直径数メートルほどの隕石が、天から、アビスめがけて降ってきているのである。
「喰らえい、メテオストーム!」
 ダークロードが叫んだ。
 勝利を確信した声であった。
 灼熱の隕石が、アビスの眼前に迫る。
 避けきれない――
「――――ッ!」
 アビスが、ぐっと眼を閉じた。
 凄まじい衝撃が、大地を揺るがした。
「なっ!?」
 驚愕の声は、誰のものであったか。
「よお、無事か……?」
 掠れた声が、アビスの上から聞こえた。
 ブラッディナイトであった。
 なんという光景だろうか。
 想像を絶する光景が広がっていた。
 ブラッディナイトが、その両腕で、隕石を受け止めていたのである。
 どれほどのパワーがあれば、人間にそのようなことができるというのか。
 ブラッディナイトが、抱えていた隕石を投げ捨てた。重い地響きが地面を揺らす。
「く…がは……!」
 苦しげな呻きと共に、ブラッディナイトの口から鮮血が溢れた。
 胸からも血が溢れている。衝撃で、傷口が開いたのだ。
 それだけではない。あれだけの衝撃を受け止めたのだ。全身の骨が砕け、内臓も潰れている。
「動くなと言ったのに、何故――」
 ブラッディナイトの体がぐらりと揺れた。
「理由、か……」
 ゆっくりと、ブラッディナイトの体が傾いていく。
「惚れたのさ、あんたに……。あの時、初めて会って剣を交わした時から、あんたのことがずっと気になってた。一目惚れって奴さ……はは、らしくねえぜ……」
 ふっと、ブラッディナイトが微笑んだような気がした。
「でも、悪くねえな……。惚れた女のために死ぬってのも……いい気分だ……ほんとに、いい気分だぜ……」
 そう呟いて、ブラッディナイトの体が崩れ落ちた。
「ブラッ――」
 アビスが、ブラッディナイトの名を呼びかけて、止まった。
 ブラッディナイトは、死んでいた。

  9/

 アビスが、ゆっくりと立ち上がった。
 足元には、もう動かぬブラッディナイトが横たわっている。
 アビスは自分に抱きついていたアリスの腕をほどき、その体をそっと床に横たえた。
 アリスもまた、力尽きていた。
 最後まで主を愛したまま果てた哀れな人形に、アビスは眼を閉じ黙祷した。
 彼女の気持ちが本物だったのか、それとも心まで作りものであったのか、それは分からない。だが、アビスは彼女に静かに祈りを捧げた。
 アリスだけではない。
 カリッツ。
 ブラッディナイト。
 そしてこの地に生き、死んでいった全ての人々に、アビスは祈った。
 顔をあげ、眼を開く。
「二人だけになったな」
 動くもののない騎士団に、静かにアビスの声が響いた。
 傷だらけの体である。
 ブラッディナイトが身代わりになったとはいえ、メテオストームの衝撃はアビスに少なからぬダメージを与えていた。
 それでも、アビスは凛然と立っていた。
 血と泥に汚れ、無数の傷を負い、ぼろぼろになりながらも、今までと変わらぬ、いや、今まで以上に凛々しいその姿は、神々しくさえあった。
 アビスの視線が、ダークロードに向けられる。
 ダークロードも、既にその魔力の殆どを使い果たしていた。
「お互い、あと一撃が限界のようだな」
「――――」
 ダークロードが、憎悪に狂った眼でアビスを睨んだ。
 魔界貴族として、常に頂点に君臨してきた闇の王。その誇りを踏みにじられた怒りが、ダークロードの中で渦巻いていた。
「許さん……」
 搾り出すような声が、ダークロードの口から洩れた。
「許さんぞ、アビス……よくも、この我を……!」
 凄まじいまでのエネルギーが、ダークロードに集結していく。
 闇が、さらに濃く、ダークロードに満ちていく。
 その濃度に、空間さえ歪んでいるかのようであった。
 アビスが、すっと剣を構えた。
 切っ先がゆっくりと持ち上がり、天を指して静止した。
 天井に開いた穴から降り注ぐ月光を受けて、刃が白々と輝いた。
 刃だけではない。
 アビスの纏った鎧も、白銀に輝いていた。
 ぎり、
 と、柄を握る手に力が籠もる。
「死ねい!」
 ダークロードが掌を突き出した。
 同時に、アビスの体が疾走した。
 銀光が一閃する。
 咆哮が、闇を裂いた。
 光が炸裂した。


  10/

 人々は見た。
 その時、一条の光が天を貫いたのを。
 光は、ゲフェンの北西、かつてグラストヘイムと呼ばれた城のあたりから昇ったようであった。
 何が起こったのか?
 それを知る者はいない。
 だが、人々は言う。
 あの光は、美しかったと。
 のちにグラストヘイムを訪れた者は、その変貌に茫然としたという。
 死と闇に覆われた、呪われた城、グラストヘイム――
 昼間でさえ濃い霧に覆われ、決して光の届かぬ暗黒の城。
 その面影は、一片も残ってはいなかった。
 崩れ落ちた城には暖かな陽光が燦々と降り注ぎ、瓦礫は一面の花々に覆われていた。
 涼やかな風が草花を揺らし、鳥たちの歌声を運んでくる。
 見上げれば、どこまでも透き通った青空。
 その中、一本の樹が、城の中央からそびえていた。
 大きく広がった枝葉は、まるでこの地を守るように。
 力強く張られた根は、まるでこの地を祝福するように。
 グラストヘイム。
 今より一千年以上前、地上の楽園を夢見て造られながら、果たせぬまま滅びた城。
 もはやそのことを知る者は、誰もいない。
 だが、この地を訪れた者は、みな口を揃えて言った。
 ここは、楽園である――と。


 了