Loveless(on)

 顔が熱い。かなり酔っているのかもしれないな、と青木聖は思った。体の中をアルコールが巡っているのを感じる。いやな気分ではなかった。今日は特別な日なのだ。少しくらい酔い過ぎるのもいい。
「いいライブだったな」
「ええ」
 隣の大男が、無愛想な顔で頷く。
「やれやれ、キミはいつもそうだ。こんな日くらい、嬉しそうな顔をしたらどうだ」
「……はあ」
 そう言って、男は首の後ろに手をやった。見慣れたその仕草に、聖はふふっと笑った。
「それだ、そのクセ。そんなところも変わらないな」
 男は、今日のライブに出演したアイドルたちのプロデューサーだった。美城プロダクションでトレーナーを務める聖にとっては、ともにアイドルを支える同僚であり、気心の知れた仲間でもある。
 同じアイドル部門に関わり、入社時期も近いふたりは、これまでもよく一緒に組んで仕事をしてきた。表情にこそ出さないが、今回の成功を誰よりも喜んでいるのは彼なのだということを、聖はよくわかっていた。
 狭い居酒屋であった。
 細長い店内には、カウンター席と、一番奥に小さなテーブル席がひとつあるだけだ。脂の染み付いた壁に、達者な字で書かれた手書きのメニューがかけてある。ふたりには馴染みの店だった。
 出演者や他のスタッフたちも交えた打ち上げも終わり、二次会、三次会と気の合うメンバーに分かれて飲み続けているうちに、気がつけば聖とプロデューサーのふたりきりになっていた。それで、以前よく通ったこの店に、河岸を変えることにしたのである。
「ひさしぶりだな、キミとここに来るのも」
 メニューに本日のおすすめ、と書かれた里芋と真だこの煮しめを箸でつまみながら、聖は言った。懐かしい味がした。
「そうですね」
 プロデューサーも黙々と同じものを食べている。その様子を、聖は心地よい酩酊の中でぼんやりと見つめた。大きい体格に似つかわしく、手指もごつい。そのごつい指が、細い箸を器用に扱う。そのギャップがなんだかおかしかった。
「どうかしましたか」
「ああ、いや。なんでもない」
 指先を見ながらにやにやしているのが怪しく思われたのだろう。プロデューサーがこちらに視線を向けた。お世辞にもいい目つきとはいえないその眼差しに、初対面の時は気圧されたものだ。けれど今は、この無愛想な顔も案外と愛嬌があると思えるようになった。
「聞いたよ。あの新人たちの緊張をほぐすために、茜たちに声掛けを頼んだんだってな。ずいぶんと気が利くじゃないか」
「それが、自分の仕事ですから」
「本当は、あまり乗り気じゃなかったんだろう? 入ったばかりの新人をいきなりステージにあげるなんて、無謀もいいところだからな」
「――――」
「でも、結局オーケーを出したってことは、よっぽど買ってるんだな。あいつらのこと」
 プロデューサーは無言で頷いた。変わらないその表情が、確信めいた強い意思を感じさせる。ふと、嫉妬に似たものが聖の胸の中に湧いた。彼の心をこんなにも惹きつけた彼女たちの輝きが、少しうやらましかった。
「そうか。私も初めはどうなるかと心配だったが、キミが見出した連中だからな、きっとやってくれると思ってたよ」
 やや自嘲めいた口調でそう言って、聖は猪口をあおった。熱い塊が喉を過ぎて胃の中に沈んでいく。さっきまであんなにも美味かった酒の味が、今はわからなかった。
「信じていたのは、彼女たちのことだけではありません」
 ふと、プロデューサーが口を開いた。
「担当するのが青木さんなら、あの短期間でもしっかりダンスを仕上げてくれると思ったから、許可したのです」
 変わらない真顔のまま、まっすぐ聖の目を見つめ、プロデューサーは言った。
 聖は驚いたように目を大きく見開き、プロデューサーを見た。そしてしばらくあっけに取られたように呆然とした。まったくの不意打ちだった。
「あの、どうかしましたか」
 硬直している聖の様子に戸惑っているのか、プロデューサーが珍しくほんの少しだけ焦りの混じった声で言った。それでようやく聖は我に返ることができた。
「ああ、うん、いや、なんでもない」
 聖はぶんぶんと首を振って、目の前の料理へと向き直った。平静を装おうとするものの、つい口元が緩んでいくのを感じる。プロデューサーがそんなにも自分のことを信頼してくれていたというのが、嬉しかった。
「直接指導したのは城ヶ崎だよ。私は最終チェックをしただけだ」
「同じことです」
 相変わらずの真顔で、きっぱりとプロデューサーが言う。ああもう、と聖は心の中で地団駄を踏んだ。この男はいつだってそうだ。臆面もなくいきなりこんなことを言う。
 顔が熱い。それはどうやら、アルコールのせいだけではないようだった。
「キミ、人を褒める時は、もうちょっとさりげなくやるものだ」
「はあ」
「じゃないと、私のように……」
 言いかけて、聖は言葉を飲み込んだ。そこから先は、軽々しく口にしてはいけない領域だと思った。言葉にして伝えなければいけないこともある。けれど、人の心は簡単に言葉にできるほど単純ではない。
「青木さん?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
 そう言って、聖は煮しめの里芋を箸でつついた。ひとくち大に割れた破片をつまみあげ、口に運ぶ。
「それよりも、今回のことはひとつ貸しだぞ。いくらキミの頼みとはいえ、次はもうあんな無茶なスケジュールは受けられないからな」
「はい」
「ふふん。じゃあ、さっそく今から返してもらおうか」
「今から、ですか」
「嫌か?」
「いえ」
「なら決まりだ」
 勘定を済ませて、ふたりは店を出た。火照った顔に夜風が心地よかった。大通りに出てタクシーを拾った。ホテル街へと向かう車内でずっと、聖は窓の外を流れる景色を見つめていた。
 終電が近い時間だというのに、繁華街は賑やかな喧騒にあふれている。立ち並ぶ街路灯にネオンの光、行き交うヘッドライト。まるで光の洪水だ。聖はふと、今日のライブのことを思い出した。ステージの上も、眩しい光に満ちあふれている。人間というのは、本能的に光り輝くものが好きな生き物なのかもしれない。
 不思議だな、と聖は思った。自分から誘ったはずなのに、これから隣の男とセックスをするのだということが、現実感のある出来事として捉えられない。心の片隅で、もしかしたらこれはすべて夢なんじゃないかと思っている自分がいる。その一方で、遊園地に遊びに行く子供のように、期待と興奮に胸を高鳴らせている自分もまたいるのだ。
 ホテルの部屋に入り、交互にシャワーを浴びた。
 ベッドの上で、裸で抱き合う。
 さっきまで感じていたふわふわした非現実感が、ぼやけていたピントが焦点を結ぶようにすっと引いていくのを聖は感じた。プロデューサーの逞しい腕に抱きとめられて、不安定だった自分という存在が固定されたのだと思った。代わりに、胸が詰まるような愛おしさがこみ上げてきた。
 プロデューサーがキスをしようとするのがわかった。一瞬、聖はそれを拒否しようとした。今キスをしたら、自分の中の何かが全部持って行かれてしまうような恐怖心があった。けれど結局、聖はプロデューサーの口づけを受け入れた。
「んっ……ふ、ちゅ……んむ」
 唇が触れ合い、プロデューサーの舌が口内へと入り込んでくる。他人に自分の内側を委ねるというのは、きっと降伏の証なのだろう。そんなことを思いながら、甘美な支配に酔いしれてゆく。
 そう、酔っているのだ。きっと今日は飲み過ぎたのだろう。だったら、とことんまで酔うのも悪くない。そう思った。それが言い訳に過ぎないことを知りながら。
 プロデューサーの大きな体が、聖の上に覆いかぶさってくる。居酒屋で眺めていたごつい指先が、今は聖の肌の上をなぞってゆく。ああ、やっぱり器用だな、と官能に身を震わせながら聖は思った。
「あ……んっ、は……ぁ、ふぁっ……ぁ」
 プロデューサーの指で、舌で、自分がゆっくりと解きほぐされてゆく。柔らかくなる。体の芯がぽっと熱を帯びて、それがじんわりと手足まで伝わり広がってゆく。
 融けていく肉体。たっぷりと潤んだ中心に、プロデューサーが口づけをする。電流が走ったように体が震えた。
 ぴちゃぴちゃと音を立ててそこを舐められる。羞恥心と快楽が頭の中でぐちゃぐちゃのマーブル模様になって、何も考えられなくなっていく。
「んっ! くっ……ぁ……はぁっ!」
 聖の乱れ方がいつもより激しいと感じたのか、プロデューサーが顔をあげてこちらを見た。
「大丈夫、いいから、もっと……」
 くしゃくしゃになった顔を手で隠しながら、聖は言った。
「頼む。私を狂わせてくれ」
「……わかりました」
 ふたたび、プロデューサーの愛撫がはじまった。聖は思考を放棄して、プロデューサーがもたらす快感に身を委ねた。色々な煩わしいことが、今だけはすべて消える。トレーナーとプロデューサーから、一対の男と女になる。
「んんっ……! はぁぁ……ぁ……ん……あぁぁっ!」
 ずぬぅうっ、とプロデューサーの先端が自分の内側へと入り込んでくる。キスはきっとこれの模範演習に違いない。肉体の内部を他人に蹂躙される、このどうしようもない単純で純粋な歪んだ行為。たまらなく異物感があるのに、それがひどく心地よくて、まるでひとつに融け合ってゆくような錯覚が、身も心もいっぱいに満たしてゆく。
「あっ、あっ、あぁっ! は……ぁ、あぁぁんっ!」
 激しい抽送が、残っていた理性を快楽で塗りつぶしていく。錯覚でもいい。このままこの人と繋がっていたい。聖はプロデューサーの大きな背に腕を回して、ぎゅっと強く体を結びつけた。すぐ目の前に、ぐっと歯を食いしばるプロデューサーの顔があった。プロデューサーのこんな表情を知っているのは、世界でただひとり、自分だけなのだと、今だけはそう思いたかった。
 絶頂が近づいてくる。汗びっしょりになった肌と肌が擦れ触れ合い、荒々しい吐息と軋むベッドの音が部屋の中に響く。自分がどれだけ淫らな声をあげているのかも気付かないまま、聖は無我夢中でプロデューサーを求めた。
 視界が白く染まる。
 全身を弓なりに大きく仰け反らせて、聖は達した。


  /


「前川ァ! ステップがずれてるぞ、気をつけろ!」
 美城プロダクションのトレーニングルームに、聖の叱咤が響きわたる。
 シンデレラプロジェクトのために集められたアイドルたちが、今日も練習に汗を流していた。もはやベテラントレーナーとなった聖のレッスンは厳しいが、それでも彼女たちはしっかりとその指導についてきている。
「どうでしょうか」
 様子を見に来たプロデューサーが、聖に訊ねた。
「ああ、みんなよくやってるよ。思った以上に飲み込みが早い」
「そうですか」
 聖とプロデューサーはしばらく、並んでレッスンに打ち込むアイドルたちの姿を眺めていた。途中でちらりと傍らのプロデューサーに視線を向けたが、相変わらず、その表情は無愛想で悪人面だ。聖は心の中で、やれやれ、と苦笑した。
「良さそうですね」
 ひととおり彼女たちのパフォーマンスを確認して、プロデューサーは言った。聖も頷く。これなら、シンデレラプロジェクト単独でのイベントデビューも、そう遠くはないかもしれない。
「そういった段取りはキミの仕事だろう。どうなんだ」 
「現在、企画中です」
「しっかり頼むぞ。あいつらの夢を叶えてやれるのは、お前だけなんだからな」
「――――」
 プロデューサーは無言で、首の後ろに手をやった。そしてぽつりと、
「次は――」
「ん?」
「次は、私が青木さんに貸しを作れるよう、頑張ろうと思います」
「なっ……」
 その言葉の意味を察して、聖はぼっと顔を赤くした。プロデューサーはいつもの無愛想な顔を崩すことなく、首の後ろをいつもより長く触り続けている。それが照れ隠しなのだということに、聖は気がついていた。
「ばっ、馬鹿かキミはっ! いきなり何を言い出すんだ、こんなときに」
 聖はプロデューサーの脇腹を肘で小突いた。でかい図体が揺れる。
「あのさ、言われた課題は終わったんだけど……次は?」
 レッスンを終えた渋谷凛が、ふたりの前にやって来た。
「あっと、そうだな。じゃあ……」
 他のアイドルたちも集まってきた。聖はひとりひとりにあわせて、スペシャルな育成プランを用意している。ノートにびっしりと書き込まれたそのプランを確認しながら、聖はレッスンメニューを指示していった。アイドルたちはみな、真剣な眼差しで聖の声に耳を傾けている。汗びっしょりになりながら、どの子たちもいい顔をしていた。さすが彼が選んだ子たちだ、と聖は思った。
 プロデューサーがトレーニングルームを後にするのを横目で見送りながら、聖はよく通る声で言った。
「よし、じゃあもう一度、最初から通しでいくぞ!」
「はいっ!」
 元気のいい声が返ってくる。彼女たちが本当のシンデレラになるために、教えなければいけないことはまだ多い。自分は魔法使いではないけれど、その手伝いくらいはしてやりたい。
 ――とはいえ、あいつが魔法使いというのも、似合わないけどな。
 黒装束に身を包んだプロデューサーの姿を想像して、聖はふふっと口元をほころばせた。窓の外では眩しい日差しが降り注いでいる。季節は移り変わろうとしている。この子たちも、プロデューサーも、そして自分も、ゆっくりと変わっていく。
 明日はきっと、今日よりも輝いている。


 END