O-majinai

 少しだけ、鼓動が早い。
 緊張しているのかもしれないな、と塩見周子は思った。
 メモリアルライブの会場――
 その、控室。
 広い部屋に、周子のほかにも、たくさんのアイドルやスタッフたちが、それぞれに慌ただしく動いている。
 開演までは、もう三十分を切っているはずであった。
 客席を埋めた無数の入場客のざわめきが、遠くから聞こえる地響きのように、ここまで届いてくる。
 不思議な高揚感にも似た熱気が、部屋の中を満たしていた。
 息を吸い込むと、その熱気が、肺から己の中へと染み込んでくるようであった。
 あるいは、その熱気が、鼓動を早めているのかもしれない。
 一足先に準備を終えた周子は、丸椅子に座って、ぼんやりと眼前の大きな鏡を見つめていた。
 そこに、自分がいる。
 白い肌に、銀色の髪。
 鏡の中の自分は、いつもと変わらぬように、冷静で落ち着いているように見えた。
 けれど、それが表面上のことに過ぎないと、自分だけが気づいている。
 もとより、感情があまり顔に出る方ではないし、こうした場面で、気後れするような性格でもない。
 ならば、この胸の鼓動は、一体何なのか。
 緊張か。
 それとも、興奮しているのか。
 ――ねえ、どっちなん?
 試みに、鏡の中の自分にそう訊いてみる。
 返事はなかった。
 どちらにしろ、自分には珍しいことだと、周子は思った。
 それだけ、今日のライブが、特別なものであるということなのかもしれない。
 舞台袖から見た、客席の様子を思い出す。
 これから、あの大勢のファンの前で、自分はセンターとしてステージに立つことになっている。
 周子は、胸に手をあてて、深く息を吸い込んだ。
 こんなことなら、もうちょっと、猫をなでておけばよかったかもしれない。
 そう思った時――
「やー、すっごい人だったねえ」
 ふと、鏡の中に、人影が増えた。
 一ノ瀬志希と、宮本フレデリカであった。
 どうやら、二人も客席を覗いてきたようだった。周子のすぐ後ろで、あれこれと会場の様子について語り合っている。
「まるでアイドルのコンサート会場みたいだったねー」
 ――いや、みたいじゃなくて、そのものだし。
 二人のやり取りに、心の中で、突っ込みを入れる。
「あれだけいると、人体実験し放題だねえ」
「にゃはは。ちょうど試したい薬もあるし、散布してみよっか」
「スモークに混ぜてもらえばいいカンジになりそーだねー」
 ――持って来てるんかい。
 ていうか、撒いちゃいかんでしょ、撒いちゃ。
「フレちゃんはどう? せっかくだしみんなの前でやりたい事とかあるー?」
「んー……」
 そう志希に訊かれたフレデリカは、少し考え込むような素振りをした。
 また適当なことを言おうとしているのだろう、と周子が思った時、ふと、鏡越しに、彼女と目があった。
 どきりと、胸が鳴った。
 なんとなく、心の中まで見透かされたような気がして、周子はすぐ目をそらした。
 フレデリカが、口を開いた。
「アタシはやっぱりー、みんなに今日は最高のライブだったなーって思ってもらいたいな」
 その言葉は、完全に周子の虚を突いたものだった。
 周子は振り向いて、フレデリカを見た。目があった。フレデリカはにっこりと微笑みながら、周子の手をとった。
「そう思ってるからこそ、緊張もするし、興奮もしてる」
 でもね、とフレデリカは言葉を続けた。
「知ってる? 気持ちを落ち着けるおまじない」
 そう言って、フレデリカは、周子の手のひらにすらすらと指を走らせた。
「こうやって手のひらに人を書いて、それを飲むんだよ」
「……それって、普通は自分の手にするもんじゃないの?」
 周子が言うと、フレデリカは悪戯っぽく、くすっと笑った。
「そうだっけ? まーいいじゃん、どっちでも」
 フレデリカは、ちゅっ、と周子の手のひらに口づけをした。その感触がくすぐったくて、周子は思わずぴくんと身体を震わせた。
「これでよし、っと」
「……」
「いいなー、あたしもやりたーい」
 志希がそう言いながら、手当たり次第に周りのアイドルの手を引っ掴んでは、何やら書き込んでいる。
「うわっ、何するんですか、一ノ瀬さん!」
「ちょ、あんた今、毒って書いたでしょ!?」
 そんな声が飛び交い、俄に控室が騒々しさに包まれる。
 その喧騒の中で、周子はしばらく、ぼんやりと自分の手のひらを見つめていた。
 そこにまだ、フレデリカの唇の温度が残っているような気がした。
 顔をあげる。
 ふと、鏡の中の自分と目があった。
 そこにいるのは、あきれたような、照れたような、ほどよく力の抜けた、いい顔をした塩見周子だった。
「……フレちゃんさー」
「ん? なにかな、シューコちゃん」
「さっき、ひとつだけ人じゃなくて、入るって書いたでしょ」
「えー、何のことかな?」
 とぼけるフレデリカに、やれやれ、と周子は苦笑した。
 その時、呼び出しの係員がやってきた。全員が立ち上がり、一斉にステージへと向かう。
 周子も、颯爽と歩きだした。
 きっと、今日は最高のステージになる。そう確信しながら。


 END