RE:Boot

 近づいてくる足音で、ふと我に返った。
 立ったまま少し眠っていたのかもしれない。城門を守る衛兵としてはあるまじき失態であったが、平和な片田舎の城下町では兵士の仕事などほとんどない。周辺に生息する魔物たちはおとなしい気性のものばかりであるし、近隣諸国との関係も良好で、人魔ともに外敵と呼べるものはいなかった。
 そんな中、門扉の見張りの仕事といえば、麗らかな陽射しの中にただぼんやりと日がな一日立ち尽くしているばかりである。つい眠たくなるのもむべなるかな、わたしは欠伸を噛み殺して、衛兵らしい顰め面を作った。
 仕事――、そう、これは仕事だ。
「やあ、ここはサンサリアの街だよ」
 わたしはそう声をかけた。さっきまでうとうとしていたわりには、すんなりと舌が回った。
 通りかかったのは若い男性だった。見た感じでは十代の後半といったところだろうか、まだ少年のあどけなさがその顔には残っていた。
 旅装束を身につけているが、行商人というわけではなさそうだった。腰には一振りの剣を提げている。よく見れば胸当てや手甲など、素材こそ金属ではなくなめし革だが、それは確かに戦地に赴くもののそれであった。
 男の表情は硬く、何かを思い詰めたようでもあった。わたしの声が耳に入らなかったのか、彼はじっと押し黙ったまま、わたしの目前を通り過ぎた。
 そういえば、とわたしは思った。風の噂で耳にしたことがある。この世界のどこかには人類滅亡を目論む魔王がいて、それを討伐すべく、伝説の勇者が旅立ちの時を迎えようとしているのだと。
 はじめて聞いた時は馬鹿馬鹿しい御伽噺だと思っていたが、案外今の青年こそが、その勇者だったりするのかもしれない。
 そんな突拍子もない思いつきに、我ながら困惑する。そうして、なぜそんなことを思ったのだろうと考えて、ふいにおかしなことに気がついた。
 旅立ち――、そう、彼は旅立ったのだ。このサンサリアの街から。
 なのになぜ、わたしは彼に、ここがサンサリアの街だと告げたのだろう。この街から旅立つ青年が、この街の名前を知らないはずなどないというのに。
 いやな汗が脇の下を流れ落ちた。穏やかな陽光の下だというのに、ひどく寒いような気がして、ぞくりと体が震えた。
 私の中に、あるはずのない記憶が蘇った。わたしが見送ってきた、見知らぬ他の若者たち。わたしがこうして声をかけ、旅立ちを見送ったのは、今の青年だけではない。いったい、何人の勇者がここサンサリアから旅立って行ったのだろう。わたしはそれを知っている。この城門をくぐる者にはかならず声をかけてきた。それがわたしの仕事。
 仕事――、そう、わたしがここにいる理由。わたしが生まれ、ここにこうして存在している理由。
 その時、誰かがわたしの前に立つ気配がした。
 わたしは顔をあげた。そこには華やかなドレスを身に纏った一人の美しい少女がいた。わたしは彼女のことを知っていた。ここサンサリア王家の姫君である、アリーシャ様だ。
 姫とはいっても、アリーシャ様はこの国のあらゆる執政を取り仕切る、実質的な最高権力者である。父王である第十五代サンサリア公は体が弱く、床に臥せりがちであったため、今は彼女が代わりとなってこの国を治めているのだ。
 わたしはアリーシャ様にご挨拶をしようと試みたが、うまく言葉が出てこなかった。口が思うように動かず、息が喉に詰まった。
 アリーシャ様はわたしを見上げて、不機嫌そうに顔を歪めた。それは人に向けた目ではなかった。一切の憐憫のない、掃き溜めの塵を見る眼差しであった。
「挙動がおかしいとは聞いていたけど、完全にスクリプトのエラーね。メモリの開放も不完全だわ。ガベージコレクションに潜在的なバグがあるのかもしれない」
 何だ――、彼女は何を言っている。
 ワタシハナニカヲイオウトシタ。
「やあ、ここはサンサリアの街だよ」
 しかし、ようやくわたしが発することができた言葉は、ただその台詞のみであった。
 アリーシャ様は大きく息を吐いて、宙空に指先で何かを描いた。どうやら文字であるらしいそれは、しかしわたしが知るどんな言語とも違っていた。やがて文字が光り始めた。わたしは吸い込まれるように、その輝きに恍惚と見入った。
「とはいえ、リソースは無駄にできないわ。初期化したインスタンスは勇者として再利用しましょう」
 すぐ近くにいるはずのアリーシャ様の声が、どこか遠いところから聞こえてくるようにわたしには思えた。目を開けているはずなのに、わたしの意識はどんどんと希薄になっていくようだった。立っているのか、あるいは横になっているのか、天地の感覚すらももはや失われつつあった。わたしをわたしたらしめているものが何かによって消去さ、

(オブジェクトへの排他的アクセス権を取得、メンバ変数の領域を開放中……)

 意識    「やあ

 ここは、


(Initializeメソッドのオーバーライド完了、ジョブを上書きしています)


 わたし


 。



 ふと我に返った。
 眠っていたようだった。いつもの自宅にいるはずなのに、見慣れた天井になぜか違和感を覚えた。
 緊張しているのかもしれない。今朝は特別な日だった。わたしが勇者としてこの街から旅立つ、その朝だ。
 この街――(やあ、ここはサンサリアの街だよ)そうサンサリアの街、わたしが生まれ育った故郷。
 わたしはベッドから降り、旅立ちのための身支度を始めた。まずは王宮に向かい、姫様に謁見しなければならない。失礼のないよう、きちんと挨拶ができるだろうか。


 了